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「鳥居みゆき」なる存在

読売ウィークリーの2008年12月7日号に掲載されている小田嶋隆氏の連載コラムで、鳥居みゆきが取り上げられている。

 

要約すれば、「芸人が心の病を抱えた人を模写し、それを周囲が笑い者にすることで成り立っている残酷な芸を積極的に利用しているテレビ局の見識を疑う」という内容で、最後は「鳥居を起用している人間は本当に責任を取れるのか? と大真面目に問いかけてみたい」と締めくくられている。

 

鳥居自身については、あの芸風は「不謹慎ではあっても、向上心のようなもの」の現れであり、芸人としての業(ごう)かもしれず、「本人には抵抗不可能な流れ」だろうから仕方がないという見解のようだ。

 

まあ、小田嶋氏がいくら吠えたところで、具体的な圧力やクレームのない限り視聴率アップのために利用できるものは何でも使うテレビ局側の行動パターンが改まることはない。それに、鳥居の芸風が視聴者にとって本当に不快感を催すものにすぎないのならば、彼の願望どおり鳥居みゆきは早晩テレビから淘汰されることになるだろう。

 

結果的にこのコラムは、鳥居みゆきの芸に対する著者の個人的な不快感を表明したものにすぎず、それ以上でもそれ以下でもない。特段コメントに値しないというのが正直なところだ。

 

本質的な話をすれば、表現活動(芸)というものは必ずリスクを伴うのであり、「誰も傷つけない」「誰も不快にさせない」表現などというのは何の魅力もない凡庸なものだ。優れた芸は、一歩間違えば劇薬になるからこそ輝きがあり、人を魅了するのである。

 

もちろんただ危ないだけで「芸」の水準に達していない表現も存在する。「奇をてらっているだけにはなりたくない」という鳥居みゆきの言葉はそのことへの自戒の念の表明に他ならない。

 

しかし少なくとも、鳥居みゆきの芸風が「視聴者に不快感を与える」という理由で自主規制の対象になるようでは、それこそテレビの末期症状である。芸人にとって今のテレビがどんなに不自由か、小田嶋氏はまるで理解していないように思える。

 

小田嶋氏のコラムに話を戻すと、「心の病を持つ異分子に周囲が困惑する」という設定で笑いを取る段階はもう鳥居には当てはまらないような気がする。「ロンハー」や「歌うま」などではむしろ変わり者だが一生懸命な鳥居を周囲が温かく(生温かく?)見守るという設定にチェンジしており、地上波で「米のよしだ」や「試験勉強」を披露したときには「病んでいる」というよりは「独特の世界観」と評価されている。

 

小田嶋氏がどの時点をとらえて論評しているか定かではないが、『恋愛中毒』に始まり『ロンハー24時間』に至る1年間で、鳥居みゆきのキャラクターは徐々にだが確実に変化しており、この変化はおそらく不可逆的だと思われる。

 

個人的願望を言えば、もっと肩の力を抜いた鳥居を深夜TV、ラジオで定期的に見れるようになれば嬉しい。