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『前田敦子はキリストを超えた』感想2―関係の絶対性

著者は、「前田敦子はキリストを超えた」という常軌を逸したキャッチフレーズをフックとしながら「AKBの宗教性」を論じる。

そこでキーワードとなるのが、「関係の絶対性」というフレーズである。このフレーズは、元々は吉本隆明の『マチウ書試論』で使われていたものだ。

この言葉を巡っては、何十年も前から難しい議論がいろいろと交わされているようだが、僕の単純な頭による理解では、結局のところ、

「人は、どんなに美しい理想を抱いていても、現実生活の中では、その置かれた立場に応じた行動しか取ることができない」

という意味ではないかと思っている。キーワードは、「現実」と「立場」だ。

たとえば、現代キリスト教がどんなに弱者救済を説いていても、現実として、強者の味方として弱者を迫害に加担せざるを得ない立場に立たされている。つまり、

「人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。」

吉本隆明『マチウ書試論』より)

もっと卑近な例を挙げれば、どんなに高尚な哲学や信条の持ち主であっても、会社に行けばサラリーマンとして上司の命令に従わないといけないし、学校に行けば先生(あるいは生徒)として叱ったり叱られたりしなければならないし、顧客のクレームには会社のマニュアルに従って対応しなければいけない。家庭では親は親として、子は子として、舅は舅として振る舞わなければならない。人はその社会的立場(関係の絶対性)から完全に自由に振舞うことはできない。それをやれば、規律違反あるいは違法な行為として処罰を受けることになり、その立場自体を失うことになる。

以上のような理解からすると、僕には著者の言う「AKBは『関係の絶対性』の生きられた器である」という主張の意味がよく分からない。

著者は「アンチがあることで、センターが輝く」ということと「関係の絶対性」を結び付けているようだが、吉本隆明がその言葉に(ある種の呪術的ともいえる情念と共に)込めた意味と、AKBのアンチとセンターの関係性がどうつながるのかが理解できなかった。

「関係の絶対性」とは、AKBの中だけにあるものではなく、社会生活のあらゆる分野に遍在するものではないのか。私たちが社会の構成員として生きている以上、「立場」の呪縛から逃れることはできない。私たち一人一人が日々の暮らしの中で否応なく実感させられるものこそが「関係の絶対性」であり、AKBの中でだけそれが純化された形で存在するとはいえないのではないか。

むしろ、AKBのファン(ヲタ)たちは、日々の息苦しい「関係の絶対性」の呪縛を逃れるためにこそAKBを求めるのではないだろうか。

まして、「AKBは『関係の絶対性』の生きられた器である」ことがなぜ「前田敦子がキリストを超えた」こととつながるのか。

宗教が現実生活からの逃避であるという意味で、AKBの存在が宗教的であるというのなら理解できる。しかし、吉本隆明の「関係の絶対性」というフレーズを使って、AKBは『関係の絶対性』を体現しているから宗教的である、というのは素直には理解し難い。

断っておくと、私は著者を批判するつもりで書いているのではなく、単純に理解できなかったという感想を述べているだけであり、このような感想を持つのは私の理解不足のせいなのかもしれない(というよりたぶんそうだろう)。

「ノリと勢いで書いた評論にネチネチと絡むな」という声も聞こえてきそうだ。自分でもそう思うが、単純に理解できないので、今のところ、この評論をエンターテイメントとして楽しむこともできていない。

AKBや前田敦子の中に何か崇高なものを見てしまったという原体験は私も共有しているだけに、もう少し腑に落ちる考察を求めている。

もう少し考えてみる。