INSTANT KARMA

We All Shine On

あまちゃんという奇跡

あまちゃんは、脚本、キャスト、ロケ地、(震災後という)現実など、色々な要素が絶妙のバランスですべてが奇跡的に成立したドラマだったように思う。

中でも「音楽」の魅力は大きかった。

劇伴を担当した大友良英氏は、映画のサントラやテレビの劇伴などの仕事でも知られているが、基本は前衛ジャズ(というかノイズ・ミュージック)のジャンルの人だった。

ジョン・ゾーンが高円寺に住んでいた時によく阿佐ヶ谷の自宅に遊びに来たとか、アヴァンギャルド界の生ける伝説である灰野敬二と共演したりとか、なかなかのキャリアの持ち主だ。

あまちゃん」の印象的なテーマ曲は、そのような前衛性を微塵も感じさせないキャッチーな曲でありながら、音楽的にはこれまでなかったような現代性と土着性を融合させたようなリズムを持っている。

潮騒のメモリー」は、このドラマにおいて、とてつもない重要性を担わされた楽曲だった。この曲が魅力的かどうかでドラマの印象はかなり変わって来る。

大友氏と彼の仲間たちは、この曲を作るのに延べ数か月をかけたという。そこに小泉今日子のアイドル的感性と坂本龍一の突発的なアイディアなどが加わって、結果的に、ものすごい完成度を持ちながら、親しみやすく耳に残り、しかもあざとさがないという奇跡のような楽曲が生まれた。

潮騒のメモリー」は、鈴鹿ひろ実のデビュー曲であったが、実際にレコーディングされたのは天野春子の歌だったという数奇な運命を持つ。その十数年後、春子の娘アキと、その友人ユイによって「潮騒のメモリーズ」として再生を遂げる。さらにはアキの主演映画(リバイバル)「潮騒のメモリー」の主題歌として天野アキによりレコーディングされる。

そして最終週で、北三陸の復興支援コンサートにおいて、鈴鹿ひろ実が自分の声で歌い上げる。

あまりに出来過ぎた展開であり、わざとらしさの極みのような物語である。

しかしそれが、まったく嫌味を残さず奇跡のように美しく収束する。

自分は何度も「奇跡」という表現を使うが、なにかこのドラマにはそうとしか表現できない要素があった。

自分は当初、2011年の大震災を初めて真正面から描くというチャレンジがどう転ぶかを心配していたが、過度のセンチメンタリズムに堕すことなく、しかも悲劇性を回避することなく、結果的にはこれも奇跡のようなバランスで明るく爽やかさに満ちた展開へとつながっていった。

それにもまた「音楽」の果たした役割が大きい。

劇中に引用された橋幸夫吉永小百合のかつてのヒット曲「いつでも夢を」は、このドラマのモチーフを象徴する曲として「潮騒のメモリー」に並ぶポジションを担っていた。

劇中歌がこれほど印象的かつ効果的に使われたドラマは珍しい。

アイドルに憧れたが海女の道を選んだ夏の「いつでも夢を」。アイドルに憧れて上京したが果たせなかった春子の「潮騒のメモリー」。そして母の夢を担って上京したアキは「地元に帰ろう」というヒット曲とともに地元に帰って行った。

帰って行った地元には、アイドルに憧れ、上京を果たせなかったユイがいた。

ユイは、一時は「アイドルになることを諦めた」と宣言したものの、アキや周囲の声に押される形で「潮騒のメモリーズ第二章」として「再デビュー」する。ユイは自分が東京に行く代わりにみんなが北三陸に来ればいいと言い、ドラマは最終的にその通りになって行く。

ドラマの中では、いったん夢敗れ挫折した者の救済が幾重にも描かれている。

天野春子然り、足立ユイ然り。

ある意味では、鈴鹿ひろ実にも当てはまるかもしれない。

より小さな規模では、足立ユイの家族のそれぞれが「崩壊と再生のドラマ」を経験している。

そして「音楽」は、それぞれの登場人物についてのテーマを、さまざまに変調し、アレンジすることで、個々人のドラマに寄り添う形になっている。

 

このドラマ全体のモチーフは「喪失と復興」である。

それは「いったん失われたものの再発見」である。

登場人物のそれぞれが何を失い、そして何を再発見し得たのか、という観点から見て行くとこのドラマは非常に興味深い。

試みに天野アキについて述べる。

アキは、東京では失われていた自分の本来の魅力を北三陸で再発見する。というより周囲によって再発見される。

この過程はドラマとして秀逸な部分であり、この部分を細やかに描くだけでも作品は十分に成立しえたろう。

しかしアキは、なぜか東京に戻って行く。アイドルになるという母親の夢を母親に代わって実現するために(本人にその自覚はないが)、当の母親の大反対を押し切って上京する。(ここで描かれる天野春子と夏の和解のシーンはドラマ屈指の名場面の一つとなった。)

アキは、東京では挫折に次ぐ挫折を経験し、奈落の底に落とされる。そのどん底の状態で一時的に地元に戻り、やはりどん底の状態にあったユイと再会する。こんな場面を今をときめく若い二人の女優がなぜあれほどのリアリティをもって演じることができたのかと思うほど凄いシーンだった。

東京に戻ったアキは、再び挫折を繰り返しながらも、アイドルになるという母親の夢を(母親の実際の援助と共に)実現していく。しかし、ここで「再発見」されているのは天野アキ自身なのか、それともアキという存在に投影された天野春子なのか。

ある意味で、アキの東京での生活は、春子のための自己犠牲の期間であった。アキは春子のカルマを清算するために上京したようなものだ。アキは上京の際、親友であったユイを失った。東京生活でアキのパートナーとなったのは、ユイではなく、春子の生き霊である若春子だったというのはオカルト的な真実といえるかもしれない。

映画「潮騒のメモリー」主題歌のレコーディング時に、天野春子が鈴鹿ひろ実の「影武者」であったという事実が、荒巻によって当事者たち全員の前で明らかされる。天野アキはここで、春子、ひろ実、荒巻という三者の歴史的和解の触媒として存在した。その以前に春子と夏の和解の触媒となったように。それはあたかも、再上京以降のアキが三者の過去の関係の縺れを解くために遣わされた使者であったかのようだった。

このタイミングで震災が起こる。

運命の必然として、アキは地元に帰る。そこで「失われた」ユイを「再発見」する。ここでもアキはユイが自己の魅力を再発見する触媒の役割を果たす。

アキとユイの「潮騒のメモリーズ」復活は、震災で傷ついた北三陸という地元の復興とパラレルな形で起こる。

最終週は、前半部のクライマックス「お座敷列車」の復活というラストに向かってまっしぐらに駆け抜けて終わる。そこではもうアキは主人公とはいえないほど周囲の状況の中に溶け込んでしまっている。アキの中では、自己と他者が融合しほとんど自他の境界線が消えるほどの幸福な状態が続いている。最後にトンネルを手をつないで走り抜けて走り続けるアキとユイの姿がその象徴だ。大袈裟な事を言えば、アキは「自分」を失って「世界」(すべて)を得たのだ。

このような究極の自己解放の姿が描かれたドラマは、自分の知る限り「あまちゃん」しか知らない。

あまちゃん」の続編はあり得るかもしれないが、それは、恐ろしいほどに完成されたこの「あまちゃん1」の続きではありえないだろう。

ベートーベンの交響曲に「続き」がないように、それはまたまったく新しいシンフォニーとならざるを得ないだろう。

こんな奇跡が果たして2度起きるものだろうか。