INSTANT KARMA

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ジョンレノンと歌右衛門

1971年1月20日の日曜日の昼下がり、上野で古美術商を営んでいる木村東介氏が店に出ると、娘が走り寄ってきて、

「レノンが来てんのよ!」と叫んだ。

明治生まれの木村氏は、レノンを知らない。

「なんだい、そのレノンてえのは」

「あらお父さん! ビートルズのジョンレノンよ! 小野洋子さんも一緒に…浮世絵を見たいと言うの」

ジョンはその年の1月13日にお忍びで来日し、25日に帰国している。そのさなかに、上野の古美術店を覗いたというわけだ。

木村氏の顔は曇った。精魂込めて蒐集した浮世絵を外人に見せる気にはなれない。日本の心ある人々に秘蔵してもらうために集めた美術には、どれも自分の心と魂が入っているから、そう安易に外人に売りたくはないのだ。氏はなるべく二流品を見せようと、心の中で意地悪くブレーキをかけた。

先に浮世絵の春画の中で、保存の悪い北斎歌麿、栄之、春潮らを見せることにして、自宅の二階に案内した。入口の床には白隠の達磨の絵がかかっていた。

ジョンはヨーコを通じて、「これは、場合によってわけてくれるか?」と聞いてきた。

「値によって、分けてあげてもいい」と答えると、

「いくらか?」というから、

「200万」と答えた。

すると、「OK」といった。

次に、床の間の曽我蕭白に目を付けた。

「ハウマッチ?」

「45万」

「OK」

である。

続いて仙涯、これも50万でOK。そして棚につんである箱行のいいのを見て、

「これは何だ」という。

「これはあなたには無理で、日本の俳聖と言われた芭蕉という人の短冊である。中に書いてあるのは俳句というものだ」と説明した。

しかしジョンは是非見せてくれといい、床にかけた。

句は「古池や 蛙飛びこむ 水の音 芭蕉」とある。

いくらときくから、また200万といった。するとジョンは、直ちに分けてくれとおそるおそるきいてきた。

私は、あなたが欲しければわけてあげてもいいと答えた。すると、彼は目を輝かして生き生きとなり、その軸を外してくれと言う。丁寧に巻いて、二重の箱に納めて渡すと、彼はそれを抱いたまま離そうとしない。そして彼は言うのである。

 

「ロンドンに帰ったら、この軸のために日本の家を建て、日本の茶席をつくり、床の間にこの軸をかけ、池のある庭をつくって日本のお茶を飲む。そしてその日から自分は英国人ではない、立派な日本人になり、日本人の心になって、この芭蕉白隠や仙涯を見て楽しむから、私に譲ったことを嘆かないでくれ」

 

と私に心から頼むのである。私の心は、日本人に売るよりもいい人に芭蕉白隠が行ってくれたと、これほど喜んだことはない。この日の売上げは、私が店を開店して以来最高の売上げになった。

その後、氏はジョンとヨーコを車で歌舞伎座に案内する。三人分切符を買って、一番後ろに腰を下ろした。

しかし、歌舞伎の華やかな美しさを見せようとした木村氏の意図に反して、上演されていたのは歌右衛門勘三郎の「隅田川」の終局であった。

隅田川」は、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描く、狂女物と呼ばれるストーリーである。狂女物は再会の喜びで終わるものが多いが、隅田川は悲しみのまま幕を閉じる。

土饅頭の上に衣をかけて泣き崩れる歌右衛門の演技と、それを労わるがごとき勘三郎の船頭の身のこなしが、志寿太夫の声に操られてよどみなく舞台の一角に流れている。

明るいものを見せようとしたつもりが逆になってしまったので、木村氏は低い声で隣の洋子に「外へ出ましょうか」と声をかけた。

ところが、洋子は、手にハンカチを持ちながら、ジョンの頬に伝わる涙をしきりに拭いていたのだった。

これは一体どうしたというのだ。拭いても拭いてもレノンの頬の涙は、とめどなく流れ落ちてくる。歌右衛門勘三郎の演技は、もはや終幕に近い。隅田川の劇の内容をレノンは知る由もない。清元志寿太夫の歌詞も彼にはわかるわけがない。そして歌右衛門勘三郎のかすかなせりふのやりとりも、その意味がわかるわけがないのに、涙はとめどなく頬にふりかかる。

 

しかし、レノンには何もかも読み取れたのだ。それは、歌右衛門の演技力だ。歌右衛門は、我が児梅若が人さらいにさらわれたのを、日夜狂気のように探しあぐねて辛うじて辿り着いた隅田河畔、そこの土饅頭の下に埋まっている稚児さんは、その児の最後の場所と教えられ、狂気のように泣き崩れる我が子を思う母親の心を、歌右衛門の演技があたかも母に化身して演ずるのだが、一般観客以上にレノンに流れてくる。言い換えれば、「名優の演技自ずから名演奏家に通ず」の意で、レノンの涙は、歌右衛門の涙であり、歌右衛門の涙は、梅若の母の涙だったのである。

幕が下りて、場内がパッと明るくなった。ジョンの眼の下は真っ赤になっている。木村氏と懇意にしている歌右衛門に是非会いたいとのジョンのたっての願いで、楽屋を訪ねることにする。

客席から汚い奈落を歩きながら、「すみませんね、こんな汚い奈落を抜けて」と言ったら、洋子の通訳で、

「いえ、私は世界中至る所を興行して歩いたから、これ以上の汚い奈落をいくつも経験済みですから、その点お気遣いなく」

楽屋でジョンは歌右衛門と固い握手を交わし、「非常に感激した。是非ロンドンに来て、隅田川をもう一度やってくれ」と繰り返し頼んだ。

その後、2,3年後に、ロンドンに歌右衛門がわたって、隅田川を上演したことは確かで、レノンが各要所要所の人々にかなり前宣伝をしてくれたことは間違いないが、レノンが感銘を受けたほどに、ロンドン市民に感銘を与えたものかどうかは甚だ疑問である。それは、日本人や歌舞伎ファンの中でも、隅田川の芝居に憧れを持つ者は稀と思う。(中略)母の心の底に潜り込んで、母の心になって演ずる歌右衛門の入神の妙技が、同じように作詞作曲を魂と共につくりこなすジョン・レノンには、ストレートに流れてきたので、泣き濡れて母を慕う稚児梅若の心は、取りも直さずレノンの心に通っていたのである。

次にパッと明るい海老蔵福助らのお祭りを見た。手古舞が揃いの姿で舞台に並んでいて見事に美しかったが、さぞかし喜んで見てくれると思ったら、

「ノー」

といって立ち上がった。形の踊りではなく、心の踊り、魂の踊りが見たかったのだろう、と木村氏は思った。

一同は表に出て、木村氏が紹介する次の古美術店に向かった。

芭蕉の箱を、レノンは、車の中でしっかりと抱いている。こんな純真な気持ちで、芭蕉の軸を抱え込んだ日本人がひとりでもいただろうか。白隠もいい人に売った。歌右衛門の演技を泣き濡れて涙を拭わずに見ていたジョン・レノンを、私は車の中で心から尊敬すると、後日金を貰うことが一瞬罪悪のようにも思えた。しかしその金は、事実受け取るには違いないのだが……。

このときに買った白隠の達磨の絵が、ジョンの自宅に飾ってあるのを、『イマジン』というドキュメンタリー映画の中で確認することが出来る。