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能年玲奈救済計画発動

能年玲奈が「救済される」のではない。

能年玲奈が「救済する」のだ。

この世界を。

この宇宙を。

吉田豪氏によれば、『週刊文春』情報によると、小金井事件の犯人は「橋本愛の狂信的なファン」だったけれど、彼女が「ロマンポルノにハマっていたという記事を目にし、さすがにドン引き」。その結果、彼女には執着しなくなったらしい。

人間、何が身を助けるか分かったもんじゃない。他の方々も、厄介なストーカーにお困りの際は、勇気をもって「ドン引き」されるような趣味をカミングアウトしてみては? もっとも橋本愛にとっては勇気でも何でもなく当たり前のことなのかもしれないが。橋本愛といえば、夏川結衣さんと並ぶ熊本美人。よく見ると、この二人、なんとなく似ている。特に若い頃の夏川さんは橋本愛にそっくり、に見えるときがある。橋本愛夏川結衣主演のハードコアな『夜がまた来る』(石井隆監督)はもう観たのだろうか?

木下古栗の小説に出てくる「茂林健二郎」や「茂森健三郎」が誰のパロディ(当てこすり?)なのかは分かるのだが、「菱野時江」が誰なのかが分からない。知っている人がいたら教えてたもれ。

大事な日に限って体調を崩す。外に出たとたん大雨が降ってくる(しかも屋内に入ると止む!)。乗らなければいけない電車にギリギリ間に合わない。

 

やることが全て裏目に出る「間の悪い日」は誰にでもあるものだが、あまり続くようならその原因を探ってみてはどうだろう。

 

勘違いされがちだが、「間の悪さ」と「運の悪さ」は別物だ。むしろ「運」のせいにしていたら「間の悪さ」は決して改善されない。

 

では「間の悪さ」とは一体何なのか。『「間」の悪さは「魔」の悪さ!』(ドクター代々木著、衆英社刊)から探っていこう。

 

「間が悪い」とはつまるところ「自分と世界の間に<魔術的な何か>が介在しているために起こる」と著者は述べる。そのせいで「いるべき時にいるべき場所にいることができない」ということが起こる。「乗らなければならない電車にギリギリ間に合わない」というのは最たる例だろう。

 

これを考えると、ミもフタもない話だが「間の悪さ」の要因の一つは、「魔界からのメッセージ」なのだ。

 

「夜寝る前に翌日の準備を済ませておく」「考えうるリスクを想定しておく」といったことをしておいても、乗った電車が事故で遅延したり、いつもは停まるはずの駅を電車が通過してしまうということは起こるはずだ。ある種の間の悪さは、どうやっても自分では解決できないものだと考えるべきなのである。

 

では、「大事な日に限って体調が悪い」類の間の悪さについてはどうだろうか。

 

もちろん、事前に体調を整えておくことである程度は対応することができるだろうが、前日まで特に体に不調はなかったのに、大事な用事がある当日に急に具合が悪くなることもあるだろう。

 

本書の著者で医師のドクター代々木師は、体調面での「間の悪さ」の一因として「自律神経の乱れ」を挙げている。

 

よく知られているように、自律神経には「交感神経」と「副交感神経」があり、一般に現代人は交換神経が優位で副交感神経が劣位だといわれている。このバランスがあまりに崩れると体の不調を引き起こす。

 

ただ、自律神経のバランスを崩す要因はあまりにも多い。睡眠不足や不規則な生活、そして季節の変わり目や天気による気圧の変化なども、私たちの交感神経レベルを上げ、副交感神経のレベルを下げる。

 

副交感神経は血流をつかさどるため、あまりに劣位になりすぎると日中の疲労が抜けにくくなったり、脳の機能低下を招く。こうなるとちょっとしたことでも体調を崩しやすくなっているから、「大事な日」ということで普段と違う緊張状態に置かれたりすると、それが表面化しやすいといえる。

 

本書を読むと、私たちは季節や時間、天気の移り変わりといった「大きな流れ」の中で生活していることがわかる。そして、「間の悪さ」というのは、「電車に乗り過ごす」といった準備不足によるものは別として、この流れと自分の心身のバイオリズムがうまく合わないことで生じるのだ。

 

ではバイオリズムを「大きな流れ」に合わせるにはどうすればよいのか。

 

「祈る」しかない。

 

どの様な「思い」も、生病老死の本然的な苦を、解決はしてくれない。「思い」だけでは、苦しみから、逃れることは、できない。

 

むしろ、思いが、強ければ、強いほど、苦しみは、増す。

だから、人は祈る。

祈らずには、いられないのだ。

 

信仰は無意味だ。

 

意味は、しょせん、人の世界の事象でしかない。

 

意味に囚われていたら信仰は成就しない。

 

信仰は、意味もなく信じることだ。

 

信仰に意味を持たせるのは、人間である。

 

意味があって祈るのではない。

 

ただ無心に祈るのだ。

 

世の中は、自分の思い通りにはいかない。

 

それは、そうだろう。

 

世の中と自分の世界は違うもの。

 

そう思っていなければ、やってられないよ。

 

人は、寒風、吹きすさぶ荒れ野に一人立ちつくした時、神に祈りを捧げる。

 

絶望に打ちひしがれた時、

 

挫折から立ち直れなくなった時、

 

哀しくて哀しくて仕方がない時、

 

無視された時、

 

迫害され、弾圧された時、

 

馬鹿にされた時、

 

怒りや憎しみに負けそうになった時、

 

恥ずかしい時、

 

差別された時、

 

大切なものを失った時、

 

平静さを失った時、

 

苦しい時、

 

新しいことに挑戦しようとする時、

 

未知な世界に踏み出そうとする時、

 

誰も理解してくれない時、

 

何が正しくて、何が間違っているのかがわからなくなった時、

 

自分の罪や過ちを認める時、

 

人の罪や過ちを正す時、

 

生まれ変わろうとした時、

 

嬉しい時、

 

成功した時、

 

感謝した気持ちを、誰かに伝えたくなった時、

 

何かを誓う時、

 

重い病に冒された時、

 

逝く時、

 

最愛の人を失った時、

 

生きる希望がなくなった時、

 

何も信じられなくなった時、

 

何をしていいのかわからなくなった時、

 

自分や他人を許せなくなった時、

 

自分の無力さに気がついた時、

 

危機に陥った時、

 

救いを求めた時、

 

神を信じられなくなった時、

 

人は、神に、祈るしかないのだ。

 

 

別れは、必ず訪れる。

 

しかも、その時は、いつ訪れるのか、誰にもわからない。

 

幸せの絶頂の時、挫折や失敗に絶望している時、別れは、時を選ばずに訪れる。

 

幸せの絶頂の時に別れが訪れた人と、絶望した時に、別れが、追い打ちをかけた人のどちらが不幸か、それは、誰にもわからない。それは、その人の心の有り様が決めるからだ。だから人は祈るのだ。祈らずには、いられないのだ。

 

人は、何に祈るのか。神にである。だからこそ、神は、必要とされるのだ。

 

神の本質は、愛。至上の愛だ。

 

許し合う以外に、救いはない。だからこそ、神の本質は、愛なのだ。

 

愛は、祈り。

 

神に自分の思いをぶつける事、それが祈りなのだ。

 

そして、神のみが自分の思いを受け止めてくれる。

 

それが、至上の愛。

 

病は、治すだけでは駄目なのである。

 

癒さなければ、駄目なのだ。

 

癒さなければならないのは、心だ。

 

気をこもれば思いとなり、思いをこもれば心となる。心を込めれば命となる。

 

故に、癒されなければならないのは、心。

 

故に、祈るのである。祈ることによって癒されるのである。

 

神に祈ることで、神の意志を変えようと思っても無駄である。

 

神の意志は、不変なのだから。

 

祈ろうと、祈るまいと神には、無縁だ。

 

神に祈ることによって変わるのは、あなたなのだ。

 

だから、ひたすらに祈るしかないのだ。

 

祈りは、神のためにするのではない。

 

あなた自身が救われるためにするのだ。

 

故に、祈り、そして感謝するのだ。

 

祈りによって現世利益を求めるのは愚かなこと。

 

あなたは、神をどのような時に感じますか。

 

雲の切れ間から夕日が川面に射し込み、ああきれいだなと、感じた時、私は、神の恩寵を感じます。

 

あなたの力では、どうしようもない事にであった時、自分を越えたところにある偉大な力を感じるでしょう。

 

それこそが神の力なのです。

 

その時、神に祈るのです。

 

今日ここに生きて在る事を神に感謝するのです。

 

神に感謝するのです。

 

神に祈るしかないのです。

 

祈るしかないのです。

 

いかに科学、医学が発達しても、生病老死の苦しみから、逃れられるわけではない。

 

若く輝いている人もやがては、やがては老い、死んでいかなければなりません。

 

いかに、相手を思い、悩み苦しんでも、届かぬ思いがある。

 

どんなに用心、注意しても、不慮の事故に、遭遇することがある。

 

すばらしい出会いにも、必ず哀しい別れがある。

 

人は、避けられぬ運命に出会った時、ただ、ひたすらに、祈るしかないのです。

 

何を祈るのかは、胸に手を当てて考えればいいのです。