INSTANT KARMA

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ある女優の告白(7)

当然ながら、いちど日本の芸能界と縁を切ったわたしが戻ることのできる場所は国内にはありませんでした。

 

マスコミは海外のセレブが休暇で来日したような視点でわたしのことを取り上げるだけで、わたしが日本で女優として活動するつもりであるなどと考えるひとはいませんでした。

 

わたしも再び日本の作品に出ることができるとも思っていませんでしたから(オファーがあれば喜んで受けたでしょうがそんな勇気のある関係者はいませんでした)、滞在中は映画(邦画中心)を見たり、演劇を見たりして過ごしていました。

 

あるとき芸術劇場でシェイクスピアの芝居を見て、舞台で演じることの強い欲求が湧いて来るのを感じました。映画とはちがって、ダイレクトに観客のレスポンスを感じながら演じることができる点では、ミラーニューロンへの刺激を生かすわたしの演技にはむしろ舞台の方が向いていると思われたのです。

 

わたしが見た「ハムレット」を演出していたのは蜷川幸雄という日本を代表する演出家でした。オフィーリアを演じたのは満嶋ひかりという女優で、わたしは彼女の水際立った演技に感銘を受けましたが、同時に強いジェラシーを感じました。そして「わたしも舞台に立ちたい」という強い欲求を抑えることが困難になってきたのです。

 

わたしたちの思考と感情は猿のようなものです。しばらくの間は野放しにして飛び跳ね回らせ、疲れてきたら、そのときに飼いならすのです。そうやってわたしは自らの衝動を飼いならそうとし続けました。

 

そんな日々を漫然と過ごしているとき、妹が会いたいと連絡してきました。ふたりで待ち合わせて、初夏の昼下がり、隅田川の川辺をそぞろ歩きしました。

 

そのうち、橋げたの下に、いろいろな家具が並べられているところを通りかかりました。

 

寝室のセットがあり、マットレスはむきだしにされ、ストライプのシーツは二個の枕と一緒に洋式箪笥の上に並べられていました。数メートル離れたところにはソファー・セットとフロア・スタンド。どこかの家のガレージ・セールのような感じでした。

 

近くに、持ち主らしき男性が缶チューハイをすすりながら、ベンチに腰かけていました。

 

「こんにちは」とわたしは言って、ベッドを手でポンポンと叩きました。

 

「なかなか良いベッドですね」

 

「それは良いベッドだよ」男性はそう言って隣に置いてあったアイスボックスからビール缶を取り出しました。

 

「なあ、お嬢さん方、一杯やらないか」と髭もじゃの男性は言いました。

 

「コップはあの食器棚の中にあるよ。俺は一服して座らせてもらうよ。そこのソファーに座る」男性はベンチから立ち上がり、ソファーにゆったりともたれて、タバコを咥えると、わたしたちを眺めました。

 

わたしたちは日傘をスタンドに立てかけ、棚にあったグラスを二つとって、妹と一緒にソファーの近くにあったテーブル・セットに腰掛け、ビールを注ぎました。テーブルのまわりはちょうど日陰になっていて、風が心地よく感じられました。

 

「ガレージ・セールですか?」わたしは男性に話しかけました。「それとも自分でお使いになるんですか?」

 

「洗いざらい売り物だ」と男性は言いました。「家が競売にかけられて、最後に残った荷物をもってきたのさ。でも自分で使うわけにもいかないから、買ってくれる人を探してる」

 

まだ定年を過ぎた年齢には見えませんでしたし、服装もこざっぱりしていました。でも社会生活を離れてしばらく経っていることがその世捨て人のような風情と伸ばし放題の髭から読み取れました。

 

「レコードをたくさんお持ちなのね」妹がテーブル・セットのそばに置いてある段ボール箱を指さして言いました。「あれはなに?」と妹が訊ねました。

 

「レコード・プレイヤーよ。あなたはCDプレイヤーしか知らないのね」とわたしが言いました。

 

「レコードをかけよう。好きなの選びなよ」と男性が言いました。傍に停めてある男性の車から電源コードが伸びていました。

 

「これ」と言って妹は一枚抜きました。レコードのラベルに書いてある名前は知らないものばかりだったので、盲滅法に選んだようでした。わたしは椅子から立ち上がって、また座りました。なんだか落ち着かない気分でした。

 

わたしたちはお酒をのみ、レコードを聴きました。古いジャズのラウンジ・ミュージックのレコードが終わると、男性が別のレコードをかけました。

 

日が落ちて夕暮れの闇が迫りつつありました。男性はベッドの側のナイト・スタンドの灯りをつけました。

 

男性はわたしたちのダンスが見たい、と言いました。

 

「君たちダンスすればいいのに。踊れるんだろう?」

 

「いえ、踊れないです」と妹が言いました。

 

「遠慮しないで。ここはうちの庭みたいなもんだ。踊りたければ踊ればいい」と男性は言って、ソファー・セットの脇にあるフロア・スタンドの灯りをつけました。

 

わたしと妹は、少し躊躇ったあとで、ふざけた社交ダンスのようなステップで、橋げたを往復するようにして踊りました。レコードが終わると、もう一度それが繰り返されました。二度めが終わったとき、「酔っ払っちゃった」と妹は言いました。

「酔っ払ってないわよ」とわたしが言いました。

「いや、酔っ払ったわよ」と妹が言いました。

 

男性はレコードを裏返しました。もうだめ、と妹が言いました。

「踊りましょうよ」とわたしは妹に言いました。それから男性に向かって、「踊りませんか?」と言いました。男性が立ち上がると、わたしは両腕を大きく広げて彼の方に歩み寄りました。

 

「誰かに見られるわよ」と妹が言いました。

 

「かまうことないさ」と男性が言いました。

 

「見させときゃいいのよ」とわたしが言いました。

 

「そのとおり」と男性が言いました。「世間の連中はあんたの一部始終を知っているようなつもりでいるようだね。でもこういうのはまだ知らないだろうね、うん」

 

わたしは男性の息づかいを首筋に感じました。

 

「あのベッド、買い手がつくといいですね」

 

わたしは目を閉じ、それから目を開けました。わたしは男性の肩に頬を埋めました。男はわたしの体を抱き寄せました。

 

「あんたも、俺と同じで、やけっぱちになってるみたいだね」と彼は言いました。

 

何週間かあとで、妹は友人にこのときの話をしました。

 

「中年の男よ。一切合財を川辺に並べてたの。ホントよ。それでわたしたちもぐでんぐでんに酔っ払ってね。ダンスしたの。橋げたの下でね。ねえ、笑わないでよ。その人がここにあるレコードをかけてくれたの。このレコード・プレーヤー見てよ。そのおじさんがくれたの。このおんぼろレコードも全部ね。この屑みたいなの、まあ見てよ・・・」