息子と2人で今話題の映画『シン・ゴジラ』を見に行った。
公開前から各所で絶賛の声が上がっていることは知っていたので、特撮映画やアニメ(監督は「エヴァンゲリオン」の庵野秀明)に関心が無くても見ておいた方がいいのだろうな、と思ったからだ。
映画館もほぼ満席に近い状態で、人気の高さをうかがわせた。
映画はドキュメンタリータッチの映像で、無人のクルーザーの船内を海上保安庁が発見するところから始まる。もちろんこれは重要な伏線になっている。
ここから一気に、緊迫感のある展開が続く。異例の事態に慌てる政府の官僚主義的な対応と、ゴジラが上陸した市街地での大混乱。既視感のある災害映像のインパクトが強く、見ていてあたかも被害の当事者であるかのような恐怖と居たたまれない感覚に陥る。
前半(ゴジラが再上陸して都心部を破壊し、静止するまで)だけでも、とてつもないものを見た、という気分でお腹いっぱいになった。
後半は、NHKの「プロジェクトX」を髣髴とさせる展開になり、「日本はまだまだやれる!」的なプロパガンダ映像を見せられている気分だった。前半で味わった絶望感があまりにリアルだったため、この展開には正直些か拍子抜けさせられたものだ。ただ大衆映画作品であることを考えればこのような落ち着きどころは必要だったのだろうし、石原さとみのなんともムズ痒い存在感や、外国人出演者のとってつけた演技の加減も、それはそれで仕方がないのだろう。
自分はゴジラ・シリーズを一作もちゃんと見たことが無いのだが、最初のゴジラは原爆の落とし子といった設定だったと聞いたことがある。戦後間もない観客がそんな映画を好んで見に行った心理がどうにも理解しがたかった記憶があるが、あの2011年から間もない「シン・ゴジラ」が多くの観客を動員しているという事実にもつながる大衆心理のマゾヒスティックで微妙な綾といったところか。
生まれてから一度も「こんな世の中めちゃくちゃになってしまえばいい」と思ったことのない人なんているのだろうか。戦争を知らない僕の世代は、大都市が灰燼に帰するという経験もなく、丸の内の日本資本主義の中枢を歩きながら、これらのマンモス的モノリスが見る影もなく崩壊する時がいつかやって来るのだろうかと夢想したこと数え切れぬ。
しかしいざ映像としてこのようなものを見せられると、そこに残りうるのは軽い寂寥感だということにも気づかされた。
映画は、復興はこれから、という希望のようなものを感じさせながら終了するが、ラストショットはゴジラのひたすら不気味でひたすら巨大な肉体なのである。
「荒ぶる神の化身」であり創造主の意志の体現であるゴジラは果たしてその目的を果たし終えたのか。映画を見終えた息子は一言「ゴジラがかわいそう」という感想を漏らした。人類はゴジラ(無尽蔵の自然エネルギー)とうまく共存する道を探る努力を決して諦めるべきではないだろう。
最後に映されたゴジラの尻尾の中にあたかも生物(人間?)がいるかのような映像が話題になっているようだが、これはあらゆる進化を超越した新人類の誕生を暗示しているのに違いないと感じた。