INSTANT KARMA

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聖の青春

 

村山聖が3歳の頃に罹患した腎ネフローゼは、昭和47年の身体障害者福祉法の改正により、身体障害に加えられたじん臓機能障害である。

 

臨床症状は極度の疲労や発熱が誘引となって、大量の蛋白尿、低タンパク血症、著しい浮腫の三つが見られるとされている。たんぱく質は細胞の基盤であり、それが不足すると身体を守る免疫細胞の供給量が激減し、抵抗力が低下する。そのため、ちょっとしたことでも高熱を発しやすくなる。治療法は、安静にすることで、何もせず布団の中でジーッと横たわっているのが最も効果のある治療法であった。

 

体調は突然崩れることが多かった。対局の朝、(大阪の下宿の)部屋を出たのはいいが玄関からどうしても動けなくなる。這うように外に出た途端にアスファルトの上に崩れる。気息を整えて立ち上がろうとするのだが手足が微動だにしない。焦りと悔しさで目頭が熱くなる。もうだめだ、また不戦敗だと覚悟を決め、アスファルトの上にへたりこむ。

 

すると、「大丈夫か?」と声をかけてくれる人がいた。近所の電気工事屋のおじさんだった。

 

「あのう、お願いです、僕を将棋会館まで連れて行ってくれませんか」

 

「よし、わかった。今車を回してやる」

 

そんなことが何度もあった。

 

29歳で亡くなる2年前の平成8年初め、大阪「腎炎・ネフローゼ児を守る会」の機関誌に村山はこんな記事を寄稿している。

 

将棋というゲームは頭の良さを争うゲームではなく、心の強さ、精神力の強さを競うゲームなのです(プロの場合)。負けそう、負けるかもといった感情は戦いのじゃまなのです。

この世界は身体が弱いとか年齢がどうとか関係ありません。目の前の一局と全力をつくし負ければまた次の一局に全力をそそぐ。この病気もそういう所があるように思います。

なぜこんな病気になってしまったのか、自分は運が悪いといった感情は体にも心にもよくありません。もっともっと体に障害がある人は苦しい思いをしているはずです。

人間は常に主観的で、自分自身の痛みでしか他人の痛みを理解できません。ですから体に障害があったり重い病気の人の気持を真に理解することはありません。哀れみも同情もありません。常に対等という意識です。

ネフローゼということを短所と思うよりも長所と思い、人と違った人生、変わったおもしろい人生が歩めるくらいの気持ちが大切だと思います。私自身も修行時代、もし健康だったらと思うことはありましたが、ないものねだりをしてもしかたがありません。もしも健康のままだったら健全な体を感謝することなく生きていたし、身体障害者のことも遠い異国の人のように感じ、接することなく終わっていたでしょう。

私にとってこの病気は体の一部になりました。もう何十年も走っていません。もう走ることはないでしょう。しかし力いっぱい走る体験より、もっともっとたくさんの体験をこの病気はくれたように思います。

 

村山には2つの目標があった。

一つは名人になること。

「名人になって早く将棋を辞めたい」と言ったことがあった。

 

もう一つは恋をすること。

しかし奥手で、病を併せ持つことに気後れしていた村山が恋愛をしたという話を、誰も聞いたことはなかった。

 

少女漫画の愛読者で、師匠の森信雄に10冊以上のリストを渡して買いに行ってほしいと頼んだこともあった。

 

森信雄は単なる将棋の師匠を超えて、村山を実の子を溺愛するように可愛がった。二人は大阪で毎日決まった定食屋へ夕食を食べに出かけていた。そこの主人は二人のことを母親に逃げられた親子だとずっと思っていた。

 

聖は風呂も何週間も入らず、顔も洗わず歯も磨かなかった。風呂嫌いは師匠も同じだったのでお互い都合がよかった。 聖は爪も髪もひげも切らず、伸び放題だった。

 

「伸びるのはきっと意味があるんです。生きているのを切るのはかわいそうです」

 

あるとき対戦相手に「村山君は臭い」と言われ泣き出す聖を、髪の毛をつかんで、強引に散髪屋に連れて行ったりもした。

 

熱が出れば寝ずに看病をする師匠は、ときには、いっしょに布団に入り抱きしめながら介抱する。 「だいじょうぶか、だいじょうぶか…」 弟子のパンツを洗い、風呂で髪を洗ってやる。

犬の親子のように、ひっそりとしかし力強くこの師弟は愛情で結ばれていた。

 

ずっと将棋会館に入り浸り、検討室の主のような村山の存在感は知れ渡り、数々の伝説を残していく。

 

あるとき、関西将棋会館ではA級順位戦が行なわれていて、控え室ではプロ棋士たちが終盤を検討していた。そこへ大御所、内藤國男九段が入ってきた。

 

内藤は詰めの達人。盤面を一瞥し、

「これは、駒がぎょうさんあって、これがこうやから、うん、詰んどるな」

みんながいっせいに詰めの検討をしていたときに、

「あのう…」

「なんや」

「詰まんと言ってます…」

「はあ? だれがそう、言っとるんや?」

「村山君がそう言ってます…」

内藤がもう一度局面を戻した。たった一人の村山と、内藤やトッププロとの勝負になった。そして内藤が言った。

「う〜ん、捕まりそうで詰まんなあ。いや、たいしたもんや」

それからは関西将棋会館での合言葉は、

 

「終盤は村山に訊け」

 

東京将棋会館でも破竹の勢いで勝ちすすむ村山に周りが注目する。

ある日、上京して翌日の対局を控えた村山が、検討が行なわれている「桂の間」にひょいとやってきた。

盤面を一瞥して検討の輪に入ろうとせず、部屋の隅に崩れるように腰をおろしている村山に、先輩格の棋士が声をかけた。

「この局面、村山君はどう思う? 詰まないよね?」

みんながいっせいに村山を見る。

 

「詰みます」

 

そう言って、つまらんものを見たとばかりに再び身を沈めた。

いらだった先輩棋士が、「どうやったら詰むのかな?」

返答いかんによっては許さないぞ、とばかりにけんか腰だ。

村山がひとこと、

 

「どうやったら詰まないんですか」

 

棋士になって収入も増えた村山がまず始めたことは、日本フォスター・プラン協会というボランティアへの寄付活動だった。東南アジアやアフリカの孤児たちに毎月仕送りをして、金銭的な親代わりになろうというものだ。

それは人知れず18歳から死ぬまでずっと続けた。

 

あるとき、村山がひとり暮らしするアパートを訪ねた友人が、その部屋の聞きしに勝るすさまじい乱れぶりに絶句した。しばらくすると尻が痒くなる。

「村山君」

「はあ」

「ここダニがおるんちゃう?」

「いるかもしれませんね」

「殺虫剤で駆除せなあかんで」

「でも、生きているものを殺すのはかわいそうじゃないですか」

 

その一方でこんな言葉も残している。

 

「対局前は無心か、相手を殺す、このどちらかの気持ちだ。体調の悪いときはだいたい殺すという気持ちのほうが強い。初めは倒すという感じだったが、それでは生ぬるい。自分は将棋しかできない人間、ならば将棋を負けるのは殺されるも同然」

 

「人を殺さないと生きていけないのがプロの世界だ。自分はそのことに時々耐えられなくなる」

 

村山の生きた時代は、羽生善治の全盛期でもあった。平成8年、羽生は6冠全てを防衛して再び王将の挑戦権を手に入れた。 そして同年2月、谷川王将を4勝0敗で完膚なきまでに叩きのめし、将棋タイトルすべてが羽生善治という一人の青年のもとに集まった。

 

村山は羽生と渾身の名局といってよい棋譜をいくつも残している。

 

初対戦は平成元年1月24日の順位戦C級1組。

深夜に及ぶ激闘が、村山の投了で終わった後、感想戦は深夜の3時まで続いた。

羽生が対局室を去った後、村山は一人、腰を下ろしたまま動かなかった。

 

「何て、強いんだ」

 

うめくように呟き、髪をかきむしり、両手で顔を覆い、もう一度呟いた。

 

「何て、強いんだ」

 

平成元年6月のある日、師匠の森が麻雀を打っている雀荘に村山がふらりと訪ねてきた。

 

何も言わずに楽しそうに麻雀を眺めている村山に、森が「何かいいことあったんか?」と聞くと、「はあ」と村山は照れ臭そうに首をすくめた。

 

「いいことあったんなら言ってみい」

 

「あの、森先生」

 

「なんや」

 

「僕、今日、20歳になったんです」

 

「ああ、そうか、それで?」

 

「いえ、それだけです。20歳になれて、嬉しいんです。20歳になれるなんて思っていませんでしたから」

 

そう言うと村山は雀荘から出て行った。

 

しばらくして森は気づいた。村山にとって20歳まで生きるということは大きな目標だったのだ、と。その目標を達成した喜びを誰かに告げたくて、いてもたってもいられずに雀荘まで来たのだ、ということを。

 

時は流れ、平成9年2月28日。村山は上京し羽生と竜王戦(1組リーグ戦)で対局。

生涯を代表する名局で無敵の羽生を下す。

 

羽生は村山将棋について「言葉だけじゃなく、ほんとうに命懸けで将棋を指しているといつも感じていました」と語っている。

 

竜王戦で羽生と闘った後、広島大学付属病院での精密検査の結果、進行性膀胱癌が見つかり入院。6月16日、28歳の誕生日の翌日に、片方の腎臓と膀胱を摘出する手術を受けた。それは8時間半に及ぶ大手術となった。

 

脳に悪影響がでて将棋に支障がでてはいけないとの判断から、抗がん剤放射線治療は拒んだ。

 

7月14日、村山は順位戦の一局を戦うために大阪に向かった。もちろん医者は必死に止めた。あの大手術を終えて1か月も経たない人間が大阪まで出て、朝10時から深夜まで畳に座り闘い続けることは不可能だ。

 

しかし村山にとって、名人挑戦への道である順位戦は、名人になるために避けて通れない絶対の勝負だった。もう村山の生きる意味はそこにしかなかった。

 

丸山忠久とのこの一戦は、まさに命を削る死闘と呼ぶにふさわしいものだった。

 

控えの間には看護婦が、万が一の時のために待機していた。

 

終盤に入り深夜に形勢は二転三転。最後にミスが出て敗れたものの、その173手に及ぶ鬼気迫る指し手について、谷川浩司はこう書いている。

 

 棋士は誰でも、「名人」に対して特別な思いを抱いているが、村山君ほど名人になりたいという気持ちが強かった棋士は居なかったのではないか、と今改めて思う。

 師匠である森六段にも、「名人になったらやめる」と話していたとか。

 腎臓の持病を抱えていた彼は、自分に与えられた時間が他人より少ない事を、敏感に感じていたのだろう。

 昨年の6月に手術を受けた村山君は、一ヵ月後、順位戦に復帰する。抽選をしてからではもう休場はできない。

 万全の体調には程遠い形だったが、村山君にとっては、ここで休むと名人から遠ざかってしまう、の思いだけだったに違いない。

 7月14日、その丸山七段との一局は壮絶な戦いだった。読者の皆さんも、この一局だけは絶対に盤に並べて、彼の名人に賭ける執念を感じ取って頂きたい。

 そしてそれが、村山君に対する一番の供養になると思うからである――

 

村山はその後の順位戦を、猛烈な勢いで勝ち続ける。

 

対局の行われる東京と大阪を行ったり来たりしながら、月に一度は広島の病院で定期健診を受けるというハードな日程をこなしていった。

 

平成10年2月13日、田丸昇を下し、村山は降格わずか一年でA級復帰を決めた。

 

しかし19日に広島に戻った村山は、癌が再発したと宣告を受ける。

 

東京へとんぼ帰りした20日、三浦弘行棋聖戦で下すが、村山は4月からの次期の休場を、誰にも相談することなく決意した。癌の再発は親にも師匠にも言わなかった。

 

28日NHK杯決勝。

 

相手は羽生善治。村山の巧みな差し回しでほとんど勝利と思えた最終盤、村山はポカをして負ける。対羽生戦通算6勝7敗。

 

3月には5局の対局を全勝する。

 

4月20日から広島に帰って村山は治療していた。

 

4月25日、広島市内で名人戦の解説会のイベントがあった。体調が悪くて寝ていた村山が夕方突然、イベント会場に自分を連れて行くよう父に懇願した。

 

「きょう、羽生さんがきているんや。どうしても羽生さんに会いたい」

 

同世代の若手棋士たちや生涯の目標とする谷川には激しい闘志を燃やし、その闘志を隠そうともしない村山だったが、なぜか羽生だけは違った。

 

常に自分の上をいき、奇跡のような偉業を次々と成し遂げていく羽生を村山は心から尊敬していた。

どんなに疲れていても弱音を吐かず、悔しくても飄々とし、そしていっさい偉そうなことを言わず、そんなそぶりも見せない羽生が村山は好きでしかたなかった。

誰とでも同じ目線で話し合い、会話を楽しめる羽生は村山にとっての理想像であった。

 

中国電力ホールに向かう車の中で、村山は羽生とのあるシーンを思い出していた。

 

以前、村山は羽生とぱったりと大阪の将棋会館前で会ったことがあった。

 

「食事に行きませんか」

 

村山は思い切って、好きな女の子をデートに誘うようにおずおずと申し出た。

 

「ああ、いいですよ。いきましょう」と羽生は快活に答えた。

 

「あの、ぼくがご馳走しますんで、ぼくの好きな店でもいいですか?」

 

「はい、はい」と羽生。

 

村山行きつけの定食屋「福島食堂」で、羽生と村山は向き合って焼き魚定食をうまそうに食べた。

村山のユーモアのある話に羽生がくったくなく笑う。2人だけの楽しい会話。

それは夢のような楽しいひとときだった。

 

平成10年8月8日、村山聖はA級在籍のまま、故郷の広島の病院で亡くなった。享年29歳。プロ通算成績は356勝201敗(12の不戦敗を含む)。

 

村山聖は薄れていく意識の中で棋譜をそらんじ、「2七銀」が最後の言葉となった。

 

東京の将棋連盟が村山逝去の知らせを受けた翌日、東京から広島にある村山の実家まで、誰よりも早く弔意を示すために訪れたのは、羽生善治であった。

 

9月11日には東京で追悼の集会が行なわれた。東京の大半の棋士が集まった。

スピーチに立った羽生はこう述べた。

 

「村山さんと同時代でともに戦えたことを私は心から光栄に思います」 

 

それは、居合わせたすべての棋士を代弁する言葉であった。