INSTANT KARMA

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『道』という体感映画

フェデリコ・フェリーニの映画を見ることは感覚にとって大変なごちそうです。」

――ジョン・レノン

この映画を見るときに自分が体験するのは、ジェルソミーナが家族の生計のために得体の知れない旅芸人(ザンパノ)に二束三文で売られていく冒頭場面から静かに始まり、二人の道中を巡るエピソードの中で徐々に高まっていき、ザンパノが見渡す限り無人の荒涼とした夜の浜辺で号泣する有名なラストシーンでクライマックスを迎える、ある持続的な感覚だ。それは、敢えて言葉にすれば神の臨在(=人間愛の不在)というような陳腐な表現にしかならないので、ウィトゲンシュタインの意見に従えば、沈黙すべきだろう。

人間的な観点から見れば、ザンパノとジェルソミーナの間には、情愛の交感のようなものは最後まで描かれない。むしろザンパノを愛そうとするたびに裏切られるジェルソミーナを慰める綱渡り芸人(キ印=イル・マット)との間に人間的な意味での情愛の交感がある。「どんな石ころでも何かの役に立っているんだ」というイル・マットの言葉は究極のヒューマニズム(人間賛歌)でなくて何だろうか。

だがイル・マットはザンパノに撲殺されてしまう。ザンパノは修道院で盗みを働くことによって聖なるものを汚し、イル・マットを殺すことでヒューマニズム的価値観(人間的な愛)をも踏みにじる卑劣漢となり、それを見たジェルソミーナは発狂する。

ジェルソミーナを見捨てたザンパノは、しばらくの月日が流れた後、彼女の哀れな最期を知って、野獣のように暴れ回り彷徨し浜辺に突っ伏す。映画は、人間として大切なものすべてを失い、虚無の中で絶望する男のむきだしの姿を映したままで終わる。

そして、このラストシーンを見ている観客は、このどうしようもない男(ザンパノ)に、慈愛とでも呼ぶしかないような激しい共感を寄せている。その視点は、超越者(=神)の視点に他ならない。

人間を超越した神、つまり<無我>の視点を提示するだけでなく、その感覚を見る者に現実に体験させてしまうというのが、真の芸術であり、映画芸術はその体験に誘う強度という点において他の芸術よりも秀でているように思う(だから一歩間違えばエゴの万能感を誘う危険な道具にもなり得る)。

フェリーニは映画の持つこの魔術的な力を自在に行使できた、二十世紀の神々の一人であり、彼の創造した作品は、どんなに才能のある監督が真似しようとしてもできるものではない。無我表現は常に具体的な人間の具体的営為から生まれるものだが、決して特定の人間に属するものではない。それは一回ごとの奇蹟のようなもので、追いかけることも捕まえることもできないところに本質がある。

だから、『道』という作品の本質は、上に述べたような物語やその解釈の中にあるのではない。映像の中に刻印されている<神的リアリティ>とでも呼ぶしかない感覚、それを体験することの中にあるものがすべてなのだと言い切ってよいのだと思う。