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映画『聖の青春』(2)

大崎善生原作『聖の青春』を読んで感動し、専ら「観る将」ではあるが、プロ棋士の将棋にある程度の思い入れのあるファンとして、映画『聖の青春』は観なければならない作品であったし、映画の出来うんぬんよりも、この作品が今こうして立派な形で映画化されたことそのものが素晴らしい出来事だと思っているので、映画の内容については敢えてコメントする必要もないと思っている。

 

それでも見た以上は忘れないうちに感想を書いておきたいし、将棋関係者の立場からは言いにくいこともあるかもしれないので、無責任なファンの立場から多少好き勝手なことを書いてもよほど不当な内容でなければ罰はあたらないのではないかと考えた。

以下、人名には敬称を省かせていただく。

 

まず森義隆監督はじめこの映画の製作者一同に深く感謝したい。村山聖というユニークな棋士がこの世に存在したということを大きく知らしめることにこの映画は多大な貢献をした。「聖の青春」という珠玉の原作に改めてスポットライトを当てることにも貢献した。

 

この映画は将棋連盟の全面的な協力の下で製作されたのだと思う。公開日には主要な登場人物でもある羽生善治本人が舞台あいさつに登場し、公開前後にも対局の詰まった多忙な日程の中でメディアのさまざまな取材に応じるなどできる限りの協力を惜しまなかったし、その他のプロ棋士たちも様々な形で協力したことが見て取れる。実際何人かの棋士も映画の中に登場している(田丸昇が一番目立っていたが、僕は山崎隆之も見逃さなかった)。

 

村山聖を演じた主演の松山ケンイチが、村山を演じるために体重を20キロも増量したことが事前のプロモーションで大きく取り上げられた。また羽生を演じた東出昌大が羽生本人のメガネを譲り受け、本人に見まがうほど“なりきって”演じていることも話題になった。この二人をはじめとして、俳優陣の熱演にも感謝したい。彼らがこの作品を、村山聖の人生に恥じない素晴らしい映画にしようと懸命に演じた気持ちは伝わってきた。

 

さて、具体的な映画の中身に入る。

 

(以下はひたすらネタバレ全開なので、まだ見ていない人でこれから見ようという人は気を付けてください。)

 

普段棋士の将棋を見ているファンの観点からすると、映画で描かれている対局場面の描写には少し違和感があった。

 

一番それを感じたのは、村山と羽生のタイトル戦の夜、村山が羽生を飲みに誘い、二人差し向かいで対話するという、動きの少ないこの映画の、ひとつのクライマックスといってよい重要な場面だ。

 

この場面は、原作の事実関係がまったく改変されており、完全なフィクションである。

 

原作では、羽生と村山が大阪の将棋会館の近くでばったりと出会い、村山が「食事に行きませんか」と“好きな女の子をデートに誘うようにおずおずと申し出た”ことになっている。

 

「ああ、いいですよ。いきましょう」と羽生は快活に答え、「あの。僕がご馳走しますんで、僕の好きな店でもいいですか?」と村山。「はい、はい」と羽生。

 

そして村山は羽生を、将棋会館近くの、いきつけの福島食堂へと連れて行った。

 

うらぶれた定食屋で羽生と村山は向かい合って焼魚定食をつついた。いつも自分が食べているものを羽生に食べさせるということは村山にとって、最高のご馳走だったかもしれない。羽生もうまそうに定食に箸を運ぶのだった。

 

村山は、将棋の話や好きな本の話、映画の話などを楽しそうに羽生に聞かせた。羽生も村山のジョークにけらけらと笑い転げた。二人にとって、それは夢のような楽しいひとときだった――

 

多少の大崎の味付けはあるとはいえ、これが事実であったことは羽生自身が認めている。

 

そして原作では、この場面は、村山の癌が転移し、壮絶な最期の日々に入る幕間の描写として挿入されている。

 

ひるがえって、映画では、先に述べたとおり、タイトル戦を戦った夜(村山の勝ち)、打ち上げの宴席を抜け出して二人で会場近くの店で食べた設定に変わっている。

 

誘い方も、羽生は「何ですか?」「どうしたんですか?」と怪訝そうな表情で村山についていき、席に着いてからも「少女漫画は読みますか?」「麻雀は?」と尋ねる村山に、「いいえ」「チェスなら」と返す羽生と、会話は噛み合わない。ようは、原作とは雰囲気もまったく変えられているのだ。

 

原作を改変することの是非は、それが映画にとって正しいのなら正当化できるだろう(ただしそれを「ノンフィクション」と謳うことの是非という別の問題はある)。

 

結論を言えば、僕はこの場面が「正しい」とも「いい」とも思えなかったのだ。この映画に対する評価は、僕のように感じる人と、逆に「この場面がよかった」と感じる人で、まったく違うものになると思う。後者のように考える人を僕は否定しないし、そういう人が多数を占めるのであれば、この映画は「いい映画」として残り続けるだろう。そして僕は心の奥ではそれを望んでいるのだ。

 

まず、タイトル戦を戦った当事者同士が、その夜に二人きりで一緒に飲むという事態は、考えられないことだ。将棋関係者なら誰でもこの不自然さに気づくだろう。なぜ?と聞かれても、その答えは長くなりすぎるのでここでは述べないが。

 

映画では、会話がかみ合わず気まずい雰囲気の中で、「羽生さんは何で将棋を指すんですか?」と究極的な質問をぶつける村山に対して、羽生が「僕は今日あなたに負けたことが死ぬほど悔しい。それだけなんじゃないかと思う」(大意。正確なセリフは失念)と答える。

 

このやりとりは、村山と羽生の“最終対決”の場面でもフラッシュバックされ、予告編にも使われているほど、この映画全体の肝(キモ)といってもいいセリフである。

 

何度も言うが、この場面は原作にはない完全なフィクションであり、現実にもこのようなことはなかった。このやりとりがいかに非現実的なものか、将棋ファンなら誰もが気づくと思う。

 

僕は確信するのだが、村山聖は羽生に向かって絶対にこんなことは言わない。万一言われたとして、羽生も絶対にこんな答え方はしない。

 

勝負に懸ける二人の想いが真剣なものであればあるほど、お互いへの想いが深ければ深いほど、二人はそのことを正面から告げあうということはないのだ。むしろ、お互いを限りなく尊重しながら、和やかに談笑し合い、ジョークに笑い転げるのが、村山と羽生という人間同士の関係だったのだ。それが将棋の、プロ棋士の世界なのだ。真実を口にした途端、それは嘘になってしまう。真実は、盤上だけで吐露しあうのが、棋士の世界なのだ。

 

「いやいや、そんなことを言ったら、映画なんて成立しないじゃないか。目に見える形で表現するからこそ、観客に伝わるんだよ。分かりやすい、目に見える形で見せないと、観客には伝わらないんだから。」そういう声が聞こえる。この映画の製作者(監督と脚本家)は、そういう思想に立脚しているのだろうと思う。これは映画の他の場面からも感じた。

 

分かりやすく表現しようとして陳腐になるということが起こり得る。この映画では残念ながらそいう部分を感じた。

 

村山の人間的な部分を表現しようとして、村山に羽生の後を(鳩森神社の中を)ストーキングさせたり、古本屋の女の子に対する仄かな恋情を匂わせたりする。これも原作にはない完全な(僕に言わせると余計な)フィクションだ。

 

原作では、ほぼ末期の状況にある村山が、たまたま広島に来ている羽生の参加しているイベントにどうしても出席したいと父親に頼んで行く描写がある。これをそのまま使えば、上記のようなフィクションは不要だったのにと思う。

 

また、村山の訃報を知った翌日に、羽生は村山の実家を訪ねている。映画では、たまたま大阪に対局に来ていたので短時間立ち寄ったと説明されているが、実際には忙しい対局の合間を縫って東京から朝一番の飛行機で来たのだった。なんでわざわざ事実を改変する必要があったのだろう。

 

また謎として、「さいきん君が米長会長の批判ばかりするから、会長が怒ってるぞ」と仲間の棋士に言われる場面があるのだが、村山が米長会長に批判的であったというような描写は原作にはない。なぜそんなセリフをわざわざ付け加える必要があったのか謎だ。

 

フィクションといえば、村山の対局相手は羽生を除いてすべて架空の棋士であるし、羽生との対局も実際にはタイトル戦は戦っていない。王将戦を戦ったのは谷川浩司であり、谷川の存在が抹消されているのも、将棋ファンからするといまいち、というか全然納得がいかない。

 

というのも、村山は「谷川を倒して名人になる」と宣言して、中学生で、病身を押して広島から独りで大阪に出てきたのであり、村山が「倒すべき名人」として常に念頭に置いていたのは、羽生よりもむしろ谷川浩司だったからだ。

 

村山と羽生だけの関係に絞って焦点を当てる意図があったとしか思えないのだが、そもそもそれが正しいのかという問題は残るにしても(村山と森信雄の師弟の関係性の方が原作では重要だし、その方が遥かに深い表現になりうるだろう。この映画ではその部分の掘り下げは足りないと言わざるを得ない)、上記のような(僕から見れば)底の浅い描写のために、将棋ファンには首を傾げざるを得ないような物語となっている。

 

「将棋ファンではなく、将棋を知らない一般の人向けの作品だから」というのが製作者側の最大の言い分だと思う。だが、ディテールの正確な表現が作品全体の説得力を生むのであり、そこの甘さを直感的に感じ取れないほど“一般の”観客は愚かではないと思う。僕が今の日本の一般的な映画客層の感性を高く見積もりすぎていて、より広範囲な層にはこの作り方がアピールするのだとすれば、製作陣の読みの方が深かったということであり、それはそれで結構なことだ。

 

いつも通り、とんでもなく上から目線の重箱の隅をつつくような批判に終始してしまったような気がする。僕の意見が完全な将棋馬鹿の思い込みであって、この映画が大ヒットすることを心から願っている。

 

僕の意見が厳しくなりすぎたのは、この映画の直前に見たのが『この世界の片隅に』という、ある意味で映画表現の限界を突き抜けた作品であったという不運なめぐりあわせによるものかもしれない。

 

とまれ、村山聖という不世出の名棋士が今の下界の様子を見て微笑んでくれているなら嬉しい。