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高峰秀子語録

高峰秀子の言葉(Bot)より。

私には、身内から戦死者を出した経験はないけれど、私のブロマイドを抱いて、たくさんの兵士が北の戦地を駆けめぐり、南の海に果てたことを知っている。

シナ事変から大東亜戦争の終わりまでの間に、私は何百通、何千通の手紙を前線の兵士から貰ったけれど、ほとんど返事を書いた記憶がない。返事を書こうにも、相手の住所も名前も書いてない手紙が多かったからである。今、思えば、それらの手紙の一通一通は、まるで遺書のようなものであった。

終戦も近くなったころ、私たちはほとんど航空隊ばかりを慰問していたが、明朝特攻機で出撃する航空兵を前にして、一体どんな顔をして歌ったり踊ったりしろというのか、あんまり情けなくて、バカバカしくて、怒り出したくなり、わけのわからぬ口惜し涙のようなものが出てきて仕方がなかった。

慰問袋から飛び出した私のブロマイドは、いつも歯をむき出してニッコリと笑っていただろう。兵士たちは、私の作り笑いを承知の上で、それでも優しく胸のポケットにおさめてくれた、と思うと、やりきれなさで身の置きどころがないような気持ちになる。

ある日、大阪から一通の重い封書が届いた。中には半紙に包まれた私のブロマイドが一枚、それも血と泥に汚れて色が変わり、よれよれになったブロマイドが同封されて、「戦死した一人息子の遺品の中にありました……」と、涙ながらの筆のあとに、私への感謝の言葉が長々とそえられていた。

男たちは戦争をした。男たちは戦争に負けた。自業自得である。ワリを食ったのは女たちである。「付き合いきれない」。それが女たちの本音だった。敗戦を境にして、「女が強くなった」と、私は思わない。けれど、敗戦によって、女がはじめて男の正体というものを識ったのは事実だと思う。

昭和二十五年に、それまで専属だった新東宝映画を飛び出して、フリーランサーの第一号として一匹狼になった私には、所属するプロダクションもなく、マネージャーもいなかったから、なんでもかんでも、自分のことは自分でしなければならなかったのである。

何時か、一人で銀座を歩いていたとき、すれ違った男性が「チェッ、すましてやがら!」と呟いた、とたん、私の口から「ニヤニヤしながら歩けるかい!」と大声がとびだして、我ながら驚いたことがある。

映画人という人種は、現金で、よい映画に弱い、というのが世界に共通する定義です。どんなに親切でも、どんなに世渡りがうまくても、金持でも、その人がよい仕事をしなければ、映画人として私は認めませんし、尊敬もしません。そこが映画界のきびしさでもあり、私の好きなところでもあるのです。

心の美しい人は、真実、その顔も美しい。心貧しければ、その貧しさを、心おごれば、そのおごりを、鏡は容赦なく映しだす。上っつらだけ気どろうが塗りたくろうが、それはアサハカ以外のなにものでもない。

私は女優という商売が好きになれなかった。でも辞めることもできない。なら、せめて、“はらわたのある女優”になりたいと思ったの。熱帯魚みたいに、水槽の中でヒラヒラとはらわたがあるのかないのかわからないような、ただ綺麗なだけの観賞魚にはなりたくなかった。

「女優のこの人は私じゃない。私は別にいる。商売上やってる」という思いが、もう十代の頃からハッキリとありましたね。自分はずっと人の書いた台詞を喋ってきたけど、本当はてめえの台詞があるんだよっていうのが小さい時から溜まってたんだね。

私の場合、非常に幸運だったと思うんです。ちょうど、映画が全盛の時に私がそこにいたわけですから。

日本映画がピークのときにそこにわたしがいたということです。そのときたまたまわたしがいた。ですから、そういう意味では自分は幸せな俳優さんという感じですね。

戦後から昭和三十年までですね。三十二年ぐらいからテレビが出てきて、ガタガタッとなりましたでしょう。そのころには私の方もくたびれちゃって仕事を選ぶようになっていて、だからちょうどよかった。今みたいな時代に出たくないですもん。変なエロ・グロ・ナンセンス映画に。

女は女にすかれ、男は男にすかれ、役者は役者にすかれることほど“確かな”ことはないと私は思っている。

映画批評だって浅ましい位ガツガツ気にします。でもいいんですよ、悪く書かれたらそれはそれで、気にして気にして、それで少しでもフンパツして上手くなりゃ儲けもんというものです。

とにかく、首をズーとめぐらせなければならないほど大きいスクリーンで、映画を一度みて欲しいの。それから、大勢で同じものを見るということねえ。茶の間でひっくり返って、一人でアクビしながら見るのと、ぜんぜん違うもの……。

映画は、ベルトコンベアで缶詰を作るのとはちがう。大勢の人間が集まって、お互いにその人間の能力を尊敬しあい、足りないところはおぎないあって、暗黙のうちに、より優れた作品を創り出してゆこうとする血の通った、情の要る仕事なのだ。

自分でいられるのは一日のうち、撮影所から帰って、ご飯食べて寝るあいだ、二時間くらいのもので、眠ればまた役のユメなんかみてるんだから……。それがこのごろは、やっと自分だけになって、うれしい。

まず、原作を三度読む。はじめは、原作全体の掌握。その次は克明に。三回めは私が演じる人物だけを抜き出して読む。これで原作とはサヨナラをして、映画化の「脚本」のでき上がりを待つ。原作にこだわりすぎると、手も足も出ない、という状態になることもあるからだ。

一本の映画は、平均して二百カット前後の小間切れカットの連続によって完成されている。その中の、わずか一場面、たったの一カットでも、人々の心に長く残れば、その映画は名作である、と私は思っている。

クローズアップで、例えばまばたきを一回するか、二回にするか、それも長いまばたきか、みじかい奴か……たったそれだけでも意味がガラリと変ってしまう。

映画の場合、ほんとうに泣いてしまったんじゃいけないの。どんなに気持ちをこめてやっても、その実は、わからせようわからせようと一生懸命なの。だから私たちは、どんな場合にも、役に溺れこんじゃうということはないのよ。

原節子】あの人もふだんはふつーの人なんですよ。ライトが当たると豹変してスターに(笑)。十人一室の中にいると「セッちゃんどこ?」ってそういう感じでしたよ。

太宰治の最後の作品、遺作になった『グッド・バイ』。新東宝で映画化されましたけどね。あれは私に書いてくれたの。でもね、半分書いて死んじゃったの。少し無責任だと思わない?

ウラカタさんの中には、矢張り何かスタアなんてものを特別な目でみる人もいて、それが一ばん淋しい辛いことだ。もっと皆仲良くなれないものかと思う。スタアなんてものは、しょせん世の中へ出れば色眼鏡のかけられ通しなんだから、現場のシュン間、それだけが、ほんとに、生きていることなんだから。

映画界はたくさんのことを私に教えてくれたが、その中で「どんな時でも、自分を第三者の目で、つき放して見ること」、これが長い私の映画生活から得た第一の教訓であり、俳優という仕事を持つ私にとって思わぬ助けともなったわけである。

私はお世辞言わない、お追従笑いしない。だから話の継ぎ穂がなくて間がもたないわけ(笑)。

それにしても、芸というものは、なんとキビしく恐ろしいものだろう。どんな芸能も、ひと目、というわけにはいかないが、五分も見聞きすればその人の芸に対する精神のありかた、鍛錬の有無、才能や人柄までが分ってくる。

撮影所では、男も女も大人も子供もない。あるものは「才能」の競り合いだけである。

シナリオは映画作品の土台になる設計図である。優れた設計図を手にしたときのスタッフたちの誇らしげな表情、高揚した精神はそのまま現場での作業へとつながってゆく。

シナリオの読み方などというものが、あるかないかは私にはわからない。けれど、シナリオのどこかにキラリと光る部分がある、とか、台詞がこなれている、とか、ストーリーの展開に抵抗がない、とか、そうした魅力が感じられれば、私にとってそのシナリオは、「いいシナリオ」なのである。

どのシナリオも、シナリオ・ライターが精魂こめた作品にはちがいないけれど、俳優には俳優独自の選択眼があり、俳優として目指す方向もある。不遜な言い方かもしれないが、どのシナリオを選ぶかは、自分の持つ一種のカンのようなもので決めるよりほかはない。

私の場合でいうなら、映画界のややこしい人間関係の中で、義理を欠き、人に何と言われようと、終始一貫、「家族連れで見られる映画」にのみ出演する、という姿勢を頑固に押し通してきた。

〈人生とは、ただシャニムニつっ走るばかりが能ではなくて、無駄や無為もまた必要なんだなァ〉ということが、このトシになってやっと分ってきた。

たくさんのファンに囲まれ、優れた監督さんにめぐり会い、うまい俳優さんと出会い、汗を流すことを決していとわない立派な裏方さんたちと、一本一本の映画を作ってきた。そういう意味では、私は最高に幸せな人間だった、と思う。