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ビボーロク(濱口竜介監督)

昨日書いた映画「ハッピーアワー」に続いて、同じ濱口竜介監督の作品「親密さ」をケーブルテレビで録画したので、少しづつ見ている。

少しづつというのは、この映画も全部で4時間以上あり、一度に見る時間が取れないので、見れるときに少しづつ見ている。

で、まだ全部見終わっていないので感想は書けないのだが、すごく面白い。映画の中の「言葉」に力があるところに惹かれた。 興味が沸いたので、監督についてググってみたら、1978年生まれ。東大の文学部を出た後(在学中は映画研究部に所属)、本人のインタビューによれば、

大学を卒業してから、映画の助監督に就かせていただいたんですけど、本当に何もできなくて。

その後に同じ監督の2時間ドラマの助監督にも就かせていただいて、それも全然うまくいかなかったんです。

それで監督から「ちょっと修行してこい」とテレビの製作会社を紹介してもらって、1年ぐらいそこでADをしていました。

その会社は経済番組を作っているところで、仕事も結構楽しかったんですけど、2006年に芸大の映像研究科が出来たときに辞めさせてもらったんです。

それでまず1期生のときに芸大を受験して落ちまして、その後1年間は塾講師で生活しながら、2期生のときにやっと合格したという。

芸大では黒沢清の自主ゼミに通った。

基本的には喫茶店とかで雑談するだけなんですけど、それだけでも濃密な時間だったと思います。

僕が在学した2年間はちょうど黒沢さんの映画を観る機会の多い時期だったんですね。入学した2006年は4月〜5月頃にシネマヴェーラでレストロペクティブをやっていて、秋頃には『LOFT』、翌年は『叫』が公開されていましたから、「あれはどう撮ったんですか」というような話を延々としていました。

学生たちの卒業制作には黒沢清の影響を受けたものが多いが、濱口は「黒沢さんの映画は好きでしたけど、自分の撮るものとは違うなという意識があった」という。

ところで、濱口監督の写真を見て、「ハッピーアワー」の中に出演していることに気づいて思わずニンマリしてしまった。 「ハッピーアワー」でも、登場人物の喋るセリフ(言葉)がとても練られていることに感心したのだが、監督のインタビューによれば、徹底した「本読み」をやったそうだ。

具体的な演出はたったひとつ、「本読み」でした。

ジャン・ルノワールの演技指導』というジゼル・ブロンベルジェが監督した短編がありますね。ブロンベルジュがルノワールの演出を体験する。この中でルノワールが監督の彼女に本読みをさせます。そのときに「電話帳を読むみたいに」読むよう言うんですね。感情をすべて排し、イントネーションや抑揚を排して読むんだと。それを何度も、何度もやりなさいと。

この映画の中で、彼女が冒頭と最後に同じ場面を演じるんですけど、それが全然違うものになっていて、これがもう凄いんです。それを見たことが「本読み」という演出に惹かれた最初です。

その後ジョン・カサヴェテスも、ロベール・ブレッソンも、小津安二郎も撮影前に本読みをしていることを知りました。

小津の場合は、最初に小津自身が演者の前ですべてのシナリオを読み上げるという形の本読みをしていたそうです。

この本読みという演出が演者にどう作用するものなのかわからないけど、これだけ自分の敬愛する作家がすべてやっているのであれば「きっと大事なことなんだろう」というぐらいの軽い気持ちから採用しました。

撮影の最初からずっと、それこそ感情を排して、抑揚とかイントネーション、ニュアンスを排したかたちで読むということをやっていました。そうすると、みんなその撮影の中盤を過ぎるとこの「本読み」のプロフェショナルになってくるという感じはありました。

彼女たちは演技のプロフェショナルではないかもしれないけど、本読みをして現場に立つということに関しては8ヶ月の撮影期間を通じて、ものすごくプロフェッショナルになっていくように見えました。

最初はなんでこんな風に読まされているかわからないというところもあって、すごくたどたどしかったり、ニュアンスを加えてきたのを取ってもらうといったやり取りもありました。ただ、ひたすら本読みをしていると、そのときの声、テキストを読み上げる声というのがすごく分厚く感じられてくるんです。

 

——それは、ひたすら出演者と本読みをして、台詞として大丈夫な状態になったら撮影に入るという形でされていたということでしょうか。

濱口:そうです。現場では、もちろん「ここちょっと動いてもらっていいですか」というような指示はある程度出すんですけど、他のことは一切指示しません。 基本的なやり方としては、撮影現場に台詞も何も覚えずに来てもらって、そこで本読みをしながら覚えてもらいます。ただ中には20分とか30分あるような長いシーンもあるので、そこは事前に2日間ほどひたすら本読みをしています。

暗記をするだけではなくて、その読んでいるときの声の分厚さというものを、本を閉じてもそのまま残るまで行うわけです。抑揚を欠き、感情を欠き、ただものすごく言葉を分厚い声で言えるぐらいになるまで本読みをします。

このように本読みを徹底するのは特に中盤からですが、そうすると、シーンが驚くほどの次元に達するように思えました。本番は受け取ったものに対して素直に反応して全然構わないし、ニュアンスが加わっても構わないと指示しています。

彼女たちのように本読みをしてテキストを覚えた人たちは、本当に一言一句そのテキストのままに話すんです。 『ハッピーアワー』を編集しているときに映像としてはOKだったけど、声としてはNGといった場合、別のテイクから声の「OKテイク」をもってきてハメ替えるということをよくしました。このとき、基本的に映像と台詞ぴったり合うんですね。つまり、すごく一定なリズムになっているんです。そして、この「OK」の声は映像の見え方を変えてしまう。それこそ一段厚みを加えるように見えて、驚きました。

『ハッピーアワー』や、『親密さ』を見ていても感じる、<テキスト第一主義>のような手法は、演者に高度な演技スキルを要求しない場面で力を発揮するようにも思える。

——濱口監督の他の作品以上に、台詞のひとつひとつが強く響いてくるというのはとても感じました。単に台詞を言っているのとは違う、登場人物がそのときの彼らのままに素直に話しているようにも聞こえます。ただ、この方法はプロの役者の方たちと仕事をするときはまた違うものになるのではないでしょうか。

濱口:『ハッピーアワー』の後にプロの役者さんたちと撮影をする機会がありましたが、それは全然違うものでした。同じように本読みをしていても、そのときの声が全然違うということがあるんです。

例えば舞台などで鍛えたような発声としての大きさとか声量とか安定感とかそういったものは役者さんたちのほうが優れています。ただ根本的に何かが違うんです。

役者さんたちの場合は意味で覚えています。同じように本読みをして撮影をしていても、本番ではテキストの台詞そのままではなく、意味としては間違ってない別の台詞が出てくるのを聞いて、そう思いました。 そのときにテキストではなくて意味を覚えているとそのシーンが、発展しきらないということはあるような気がしました。

もちろん役者さんたちは経験がありますから自分なりのやり方で乗り越えることができるのですが、同じやり方を職業俳優と仕事するときにそのまま持ち込むことはできないんだなとは思いました。

そのことを自分なりに分析すると、『ハッピーアワー』の彼女たちはテキストをテキストのまま覚えているわけですから、最初はまっさらな状態なんです。 そのテキストを言うとまずその本人がその言葉を聞くことになり、それを更に相手が聞いてその場に固有のニュアンスが生まれることになります。ニュアンスが生まれることで、以降もお互いにそれに即した反応が表れます。その反応を、そこに参加している演者全員が、テキストはそのままに自分の身体の素直な反応で返していったときに、そのシーンが自由に、その場に応じて発展していくということが起きるのではないかと思いました。

 

同じインタビューの中で、濱口監督が「エモーションを記録する」ことへのこだわりを明快に語っていて、おもしろかった。ここで彼が語っている「エモーション」は、形は違えど、素晴らしい映画の中には必ず宿っているものであり、結局のところ、すべての映画やドラマや演劇というのは、この「エモーション」を瞬間的に捉え形にするために存在するのではないかとさえ思う。

—最近の濱口監督の作品を拝見していると、見えないものに対する興味が非常に強いように感じるんです。『親密さ』や『不気味なものの肌に触れる』にしても、タイトルだけ見てもカメラに映るものでは決してないわけです。『ハッピーアワー』で言うと、途中にいなくなってしまうある人物が他の人物たちにその後もずっと影響を与え続けます。見えなくなったものが登場人物たちを縛りつけるとさえ言ってもいいかもしれません。

濱口:この大構造が何から発想されているかというとジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』なんです。4人の親友同士の男性がいてひとりが死んでしまう。残りの3人が三日三晩遊び回るわけですけど、そのときに遊べば遊ぶほど、騒げば騒ぐほど、観客には悲しみが体感されるということが起きるような気がしました。

そのとき僕は映画の中に、人生よりもずっと濃密な感情を見たような気がするんですね。僕は『ハズバンズ』というものに、もしくはすべてのカサヴェテス作品に「エモーション」を感じるわけです。そして、実のところそれを見なければきっと映画を作るという選択肢自体そもそもなかったような気がします。

このエモーションというものを追求しない限り、僕には映画を作る意味というのはないんです。 そうきちんと思えるようになったのは最近のことですけど。なので、答えになるかはわからないんですけれど、エモーションというのは当然見えないんだけれど、見えるもの、聞こえるものを通じて感知されるものだと思うんです。その点では、風みたいなものですね。

映画の中で木や衣服が揺れたら風が見えなくても、「風が吹いてる」って思うでしょう。それは実は観客の中に吹いている。同様にエモーションが観客のうちに生まれるのも、見ているもの、聞いているものを通じてです。

『ハズバンズ』みたいに設定が見え方に影響を与えることも、もちろんあります。でも、間違いなく僕は演じているベン・ギャザラやピーター・フォークを通じてエモーションを感じた。 つまり、演者を通じてエモーションは現れる。そのためには映っている演者の身体をその次元に至らせないといけない。どうやったら常にそれが起こるかというのは未だにわからないです。それでも、演者の身体から生まれてくるようなエモーションを直に捉えたいということはずっと考えています。

演者を介してエモーションが観客のうちにまで生まれるということは、他者でしかない人と人の間に「つながり」が生まれるということです。センチメンタルな言い方になりますけどそうなんだと思います。それは例えばジーナ・ローランズや『東京物語』の原節子が見せてくれたものだとも思います。それは人の人生を変えるぐらいの体験なんです。僕もまた、エモーションを直接的に撮りたい。作劇ということはもちろん重要なんだけど、究極的には風を撮るみたいにエモーションを記録したい。そういう、すごく単純な欲望があります。

「ハッピーアワー」の中で、“アーチスト”鵜飼が、ワークショップの終わりに、もっともらしい説明をつけて、こんなことを話す。

(お互いの重心や正中線を見つけることから生じる「重さのない」つながりは)コミュニケーションというよりは「コネクト」とか「エンゲージ」とか「マリッジ」みたいなもんじゃないか。 それが他人との間でできたら、もしかしたら、それってすごい幸せな時間なのかも知れない。でも重さを感じない為にかえって、気がつけば重心を見失ってしまう時がある。崩れてしまうときがある、そしたらまた重心を見付けるためにコミュニケーションをしないといけない。他人とも、自分ともね。その繰り返しなのかなって思ってます。

このシーンで鵜飼の口から発せられると、かなり胡散臭い響きをもつこの言葉は、実は最も本質的で、映画の核心に触れるものかもしれない。 なんていうレビューや感想が、ググってみたらたくさん出てきた。 濱口竜介監督、要注目だ。