War Is Over

 if you want it

こころの明暗

漱石最後の小説であり、その死去により未完におわった作品として知られる。 強烈に面白く、この歳になるまで読んでいなかった自分を思わず叱咤。

 

(以下小説のネタバれ含むため未読の方は注意)

 

主人公の津田とその妻のお延は、31歳と23歳の、結婚して半年の夫婦。お互いに好き合って結婚した二人のはずだが、どうもその関係はしっくりいっていない。

読み進めると、その原因は夫の津田にあることが分かってくる。

津田にはお延との前に清子という女と恋愛関係にあったが、清子が突然翻意して関という男と結婚してしまったのである。津田には清子の心変わりの理由が未だに分からない。

津田と清子の間を取り持っていた吉川夫人の勧めで津田は単身病気療養のため温泉場に赴き、そこでやはり流産後の療養をしている清子と会う場面で小説は終わる。

津田と清子の関係を知っている人物がもう一人いて、それは小林という貧しい出の社会主義者を自称する男だ。この小林という人物はドストエフスキーの小説に登場する『罪と罰』のマルメドーラフや『カラマーゾフの兄弟』のイワンのような登場人物を連想させる、お延たちの生きる世界の社会常識を脅かす不気味な存在である。

漱石がこの小説をどう完結させようとしていたのか、たぶんいろんな文学ファンや評論家がいろんな想像を巡らせているだろうがそうしたものには一切目を通していない自分の現時点での推理は以下のようなもの。

漱石新聞小説家であり、文学的要素だけでなく、エンターテイメントとしての要素、つまり物語の求心力というものを重視しているから、どう展開するのが一番面白くなるか(読者を惹きつけることができるか)という観点から書き進めたはず。

そう考えると、津田と再開した清子が、本音では惹かれあっていたことでヨリを戻し、東京には戻らずに二人で逃避行を試みる途中で、朝鮮に渡る途中の小林と遭遇し、三人(プラス貧乏芸術家の原という男)で彷徨うというロードムービー的展開に突入することが当然に予想される。

それを妻・お延と、吉川夫人、そして津田の妹お秀の三人が共同して、さまざまな手がかりを頼りに行方を探すいう、アドベンチャー的な展開が必然的に続く。

それと並行して、お延の実家である岡本家の継子が誘拐されるというハプニング発生。岡本家の財産を狙った犯行かと誰もが考えていると、実は清子の夫・関が事件に深く関わっていることが判明し、事態は混迷の度合いを深める。

やがて津田と清子は玉川上水で心中。小林は自殺し、小林からの分厚い遺書がお延のもとに届く。そこには小林だけが知る事態の真相が余すところなく描かれていたのであった。

 

話は変わるが、漱石の小説「こころ」の「先生」の自殺の理由は、親友Kを裏切って御嬢さんと結婚しKを自殺に追いやったことへの罪悪感などではなく、先生が同性愛者であったこと(そして最愛の存在であったKを永久に失ったこと)への苦悩であったことがほとんどギョーカイの定説となってきていることを偶然知った。

確かに読み返してみるとそうとしか読めない。

「先生」に惹かれていた「私」もまた同性愛者であり、先生が私に、妻には決して明かさないように頼んだ「秘密」とはこのことであったのだ。

ちなみに、「先生」が自分の性癖を明確に自覚したのは、Kの自殺の数年後である。

私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。初めはそれが偶然外から襲って来るのです。私は驚きました。私はぞっとしました。しかししばらくしている中に、私の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。けれども私は医者にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした。

 

死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言で直ぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。 いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。

このような「先生」の感覚は、19世紀に生きた同性愛者チャイコフスキーや、哲学者ウィトゲンシュタインの度重なる自殺念慮にきわめて類似しているという。

ウィトゲンシュタインが同性愛者でありそのことに倫理的葛藤を生涯抱えていたことは今では周知の事実である。

なぜ漱石がこれほど的確に同性愛者の苦悩をリアルに描くこと出来たのかは不明であるが、彼が「こころ」のモチーフにした英国の文学作品(オスカー・ワイルド?)を参考にしたのではないかと言う人もいるようだ。