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ネトアナの独言

外山恒一が「人民の敵」というサイトで東浩紀の「ゲンロン」という雑誌に掲載の「昭和批評の諸問題」という座談会に噛みつく座談会を行っているのだが、これがなかなか面白いので、「元ネタ」である「ゲンロン」の座談会も読んでみたが、これはこれでなかなか面白かった。 特に以下のくだりは共感した(外山はオカルト的な物に強いアレルギーを持っているので、中沢新一を評価しないし、ニューエイジに至ってはまったく理解の範囲外とするのはやむを得ない)。

 東「ニューアカニューエイジの距離はけっこう重要です。よく言われることですが、90年代に到来する情報技術革命は、思想的にはニューエイジと深く結びついています。ところが日本では、オウム事件をきっかけにニューエイジ的な感性が社会に認められなくなってしまった。「疑似科学」のひとことで片づけてしまっている。それが21世紀に入って以降、日本で思想を立ち上げることをひどく困難にしているように思う。ニューエイジで何が問われていたのか、正しいとかまちがっているとか以前に、思想的に検討する必要がある。その背景が共有されていないと、情報技術が社会を変えるという話も、金が儲かるというビジネスの話から外に出ないんですよね。…マルクーハンもジョブズニューエイジと切り離せない。けれど日本ではそう考えられていない。批評周辺に話を戻しても、たとえば宮台真司なんて、吉本隆明見田宗介の影響を強く受けていて、じつはオカルトやニューエイジに感性が近いひとなわけでしょう。それなのに、オウム事件に出会い、オウムに入るくらいなら援交少女になるほうがいいと言って、徹底した世俗主義唯物論者に転向する。でも本来の基盤がニューエイジ的だから、いまはそちらに帰ってきている。これは宮台だけの問題ではなくて、ニューエイジへの言及が禁じられたことが、一時期の日本の言論空間に大きな負荷をかけたのはまちがいないと思う。」 

この東浩紀の論旨には同感。その結果として、江原某のような人物がスピリチュアリズムの権威として日本のメジャー出版社から大量に著作を発表し、俗説の垂れ流し状態が放置される事態を招いた。 その一方で、「マインドフルネス」に代表されるような、ストレスに負けないビジネスマンのための瞑想や禅などの手法が逆輸入され、資本主義に取り込まれるという現象が起こっている。 外山恒一は「ファシスト」などといって右翼思想に接近しているようだが、本来右翼は精神主義スピリチュアリズムとの親和性が高いので、オカルトを毛嫌いせずに、ひとつ日本の伝統的な神道思想でも本格的に学んでみてはどうだろうか(笑)。