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大山康晴と関西将棋会館

お盆の帰省のついでに、実家にあった将棋世界』1992年10月号「大山康晴追悼号」を読んだ。

面白かったので少し書き写しておく。

弟子の有吉道夫のインタビューより。

―現在、東京都大阪にある将棋会館は大山先生の尽力でできたそうですね。

有吉 ええ、そうです。先生は東京の将棋会館を作られた後、すぐ大阪の将棋会館の建設に回られたんです。連盟はお金がないですからファンや財界の基金でできたんですが、大山先生がその機関車役でした。

東京の将棋会館を建てるときは、たまたま高輪に日本棋院の空き家があって、そこを臨時に借りて私たちも対局してたんですが、大山先生は朝9時に来られて職員と二人で資金集めに出かけられました。

夕方6時に戻ってきて反省会をやり、明日はどこどこへ行こうと決められて。そういうお姿によくお目にかかりました。

先生は手空きの時は一生懸命、外を回っておられたんですよ。それで東京の会館ができてから1年もしないうちに、「今度は大阪をやろう」と言われたんです。みんなビックリして「これは大山先生、少し指しすぎじゃないか」と。というのは東京がすんで大阪といっても、将棋ファンというのは東京も大阪も同じでしょう。東京の時は日本で一つの会館ということで賛同を得やすいけど、大阪は二つ目ですからね。

当時、私は周囲から「大山先生に、もう少したってからのほうがいいんじゃないか、と言ってほしい」と言われたことがあります。それで先生に「いまは景気もあまりよくないし、東京の会館が建ったばかりだから、どうなんですか」と聞いたことがあります。

そしたら先生は、「大変なのはよくわかっている。時期が悪いって言ったら、いつだっていい時はないんだ。やろうと思ったときが一番いい時期なんだよ。自分が元気な間でないと、大阪に会館はできないよ」と言われました。

私は、「先生がそこまでおっしゃるなら」と言うしかなかった。それでおやりになったんです。

でも、やるといってもお金がないわけでしょう。土地もない。しかし会館がどこに建つか曖昧模糊としてたんじゃ仕方がないというので、まず土地を確保しようということになった。それと並行して土地を買う資金を何とかしなきゃならんと。つまり二つの難題があったんです。

 

―土地探しから始めなければいけないのだから大変だったでしょう。

有吉 お金はなかなか集まりませんでした。そこで大山先生が「記念免状を発行してまかなおう」というアイデアを出されたんです。木村、大山、中原の三名が署名した特別記念免状ですよ。

 

―現実には、それで土地を買うお金ができた。建物の時はどうしたんですか。

有吉 ファンの浄財はもちろんですが、財界とか、そういう大口のところも大事ですわね。一つのエピソードですが「だれのところに一番最初に行こうか」となったとき、大山先生は「大阪で一番お金の出そうでない人のところへ行こう。その人が出せば、他の人も、あれが出すんだからしょうがないや、ということで出すだろう」と言われました。

それで最初に行ったのが、大阪マルビルのオーナー、吉本晴彦さんのところでした。

 

―「大日本どケチ教」の教祖ですね。

有吉 私と大山先生でマルビルの事務所に行ったら秘書の方が麦茶を持ってこられ、吉本さんの第一声が「あなたたちは特別待遇のお客さんです。いままで、お茶なんか出したことは一回もないですよ」でした。

大山先生が、「福島区将棋会館を建てます。吉本さんがお金を出してくれたら非常に集めやすいから、名前がほしい」と言ったら、吉本さんは、「名前は書いてもいいけど、お金は出しませんよ。私の教義に反する」と。でも大山先生も「そこを何とか」と譲りません。

結局、吉本さんは「しょうがない。それじゃあ10万円出しましょう。ただし奉納帳にそう書くだけで、お金は出しませんよ。私が10万円出したと書けば、あのケチが出した、ということで、50万円にも100万円にもなりますから」。

大山先生は笑い出しましてね。「それで結構です」と言ったら、吉本さんは「絶対にお金を取りに来ちゃこまりますよ。有吉さん、証人になって下さい(笑)。」

 

―ケチが徹底してますね。(笑)

有吉 まあ、そういうことで、大山先生は暑い時でも寒い時でも、あちこち回って資金集めに奔走されたんです。

 

―それで関西将棋会館ができた。

有吉 大山先生は終生、大阪のことが頭から離れなかったですね。12歳で小学校を卒業してから20歳ころまで木見金治郎先生のおうちにおられましたから。自分が修行した大阪という場所に生涯を通じて特別な感情を抱いておられました。