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愛が嫌い

文學界2018年7月号掲載の町屋良平『愛が嫌い』を読む。

現代を生きるキツさがとても丁寧に描かれていて、読者がどういう社会的立場にあるかで、感想はおのずと異なってくるだろう。

ネタバレ(というほどのストーリーはないのだが)をするので、これから読む人は気を付けて。

 

主人公の「ぼく」は29歳。前職である出版社の営業職を27歳で退職してから、週3でファミレスの夜勤をしている。 3か月ほど前から、8時からのシフトの前に、真菜加という友人の子、2歳の「ひろくん」を、6時に保育園にお迎えに行き、駅で真菜加に引き渡すのを引き受けるようになった。

父親でない男性が夕方のひとときを2歳の子と二人きりで過ごすことに仄かなうしろめたさを感じつつ、「ぼく」は自分と同じ名前を持つ「ひろくん」と、30分ほどの、手を繋いで街並みやマンション(ぼくは無類の集合住宅好きだ)を眺めながら歩いたり、ぐずったときにはだっこしたり、公園の砂場で遊ぶのを見守ったりする時間を慈しんでいる。

ひろは2歳を過ぎでも、まだほとんどことばを話さず、それを真菜加は心配しているのだが、言語を未だ獲得せず、自我がまったく形成されていない存在と共に過ごすことが、却って「ぼく」には心地よい。

…そうしてだんだん大人になり、ぼくはボンヤリ浴槽に浸かることもなくなり、いまでは風呂で本を読んだり、浴槽の蓋に乗せたスマホで動画をみたりしている。ただただボーッとする時間のなくなってひさしい。ひろと散歩しているときの感覚はシャワーを浴びているときのそれによく似ている。頭をあらう、ひろを見ている、それぞれに目的ははっきりしているが、思考は別の地点をさまよっている。しかしまったくの幻想が時間を侵しているようではない。シャワーの時間もひろとの時間も、生活の時間にしっかり紐づけされていながら、それでこそなのかもしれないけれど、どこまでも自由に跳びはねている気がしていた。

「ぼく」は幼い頃から、自己評価がひくいのだが頑固なところがあり、なにかをしてもらうと「こわい」「自分にはこんなことをしてもらう資格はないのに」「自分がどうしたいのかわからない」とつい思ってしまう、成熟した自我のなさを抱えていて、家族の全員が成人してから離婚を経験していて、つねに誰かと誰か罵り合うような家庭環境で、諍いながら維持していく家族関係の常識にどうしても寄り添えずにいる。

2年前まで、3年くらい同棲していた彼女がいたが、「情が湧く」という実感をついに経験できないまま別れた。

里女さんが料理をつくってくれて、「おいしい?」と聞かれ、ぼくは満面の笑みで「おいしい!」と応えた。本心の本心だったからこそ、毎日こんなことがつづいて、本心を毎日いうのはつらかった。里女さんは「やさしいうそを吐いてほしい」と泣いた。そんなありきたりなことをいわせるまで追いつめているのかとぼくは反省した。しかし体力がどうしても追いつかない。「やさしいうそ」には根気が要った。頑固な性質のせいか率直の方が万倍らくだった。その実「本心」こそがもっともない。自我がない。ぼくは模範的にいつも「おいしい!」「ありがとう!」「大すき!」といって、いつしかウツウツとしてきた。里女さんにとおまわしに「結婚」を表現されると、その表現を台無しに打ち消した。愛が無理なんだってことだけはさいごのさいごまでいえなかった。

「ぼく」には愛がこわい。生活がこわい。そしてそのことを人に言うことができない。

親や友人の目はきびしい。しかしぼくは自分でもどうして前職が無理だったのか、再就職にどうして踏み切れないのか、なにに甘えてなにから逃げているのか、そういったひとつひとつの輪郭さえもぼやけてうまく危機感を持てずにいた。就職恋愛結婚という普通を歩んだところで、明日を見据える能動もほんの一瞬の油断ですべてが崩れる。地震や不倫や金融崩壊。そういったカタストロフを想像せず築く丁寧な明日をうまく保てない。一瞬先の闇をえんえん夢想して、「普通」にむかう希望も諦観ももてないまま、ただ目前の一日ずつを重ねてしまっていた。

ファミレスでの仕事は、ソツなくこなしている。きちんとした仕事ぶりが評価されて、やがて週3のシフトがバイトの退職に伴って週5になり、時間帯も20時から19時半、19時半から19時とラッシュ帯に重なるようになり、「ディナーリーダになるなら昇給させる」と店長に言われるまでになる。

深夜のファミレスで働く醍醐味はひとのいない真夜なかをしっかり眺められることだ。元の正社員生活に戻れば、けっして味わいえない感覚がある。ようするにぼくは充足していた。その充足は世間でいうぜつぼうと表裏一体である。すーっと息を吸う。吐く。からだのすみずみに酸素が充溢し、前職でかんじていたゆううつの記憶をほとんど手放していた。もう「若者の○×離れ」というべき歳でもない三十まえの男だが、いうなれば若者の人生離れとでもいうべき状況をまさしく生きている。そんな自覚はありつつも、あらゆる能動がうまれえない現況にぼくはなんの感想ももてずにいる。

「ぼく」は自分の子どもを持つことを欲していない。草で指を切ってしまい、血が出てびっくりして、痛みを我慢したひろの顔を思い出して涙ぐみながら、「ぼく」はたぶん自分の子供をうまく社会に放てない、そのことが子どもを持ちたくない理由だということに気付く。

ぼくはひろたちのこれからに不憫しか感じない。せめて自分のマシな部分、内臓のつよさぐらいのものだが、そういった善い要素をひろにすこしだけでも分け与えて、心やすい将来をあゆんでほしいものなあと考えるに、自分のなかにゆるやかな自殺願望があることに心いたって驚いた。

前職からの付き合いである真菜加の夫とは真菜加を含めた3人ぐるみの付き合いで、真菜加は今でも「中野」と呼んでいる。

SEをしていて、繁忙期の帰宅は深夜になってしまうし、それがあまりにも続くと抑うつ状態に陥って休業したり復帰したりを繰り返している。

真菜加じしんも職場との時短交渉がうまくいかず、保育園の延長料金がの発生する6時から6時半までの30分を、ぼくが担当し、ひろのお迎えに行くというスタイルが定着した。

激務と鬱を繰り返す真菜加の旦那は、思うようなペースで育児参加できない歯痒さからか、ぼくのことは概ね歓迎してくれており、たまに会うとやさしくほがらかに感謝を述べてくれる。

お迎えのあとは、駅で落ち合って、3人でまるでほんとうの親子のように一緒にマンションに戻り、ぼくに8時からのシフトがある日は、食事をごちそうになったあとすぐに北越谷のバイト先に自転車を走らせる。

シフトがない日は、真菜加が手の込んだつまみをつくってくれて、夕食と晩酌を共にし、「日ごろの感謝のしるし」に種々の栄養を摂るようすすめてくる。

ひろが体調を崩し、1週間ぶりにお迎えに行った日、ひろの歩みに身を任せていると、マンションの前の公園に着いた。砂場で遊んでいる女の子の母親に話しかけ、ずいぶんしっかりしているので年齢を訊ねると、来月で3歳と言われて驚く。

「お名前は?」との質問に応えたとき、「ひろくん」と心底からカワイイと発するような声でいった母親に、ぼくは郷愁をおぼえはじめる。女のひとにあまえたい気持ちが数か月ぶりに高ぶって、大胆にも母親の方に名前を訊ねる。ぼくの名前がひろと同じ「小林比侶」であることがこのとき初めて読者に明らかになる。

そろそろ真菜加に「マンション」というメールを打たなければ。スマホを探ろうとし、しかし思いなおしてベンチにおかれた手のひらが、ずいぶん人妻と接近してしまっていた。指が交差する、なにかしらの濃い感情が交換される一歩手前になっていて、電気を発しているみたいに指先に感覚が集中し、かえって接触しているのかしていないのかわからない。視認するのもためらわれた。触っていない気がした。しかし気持ちのどこかでは触ってしまっている。ベンチの木の質感が手のひらにあたたかい。もし慌てて手のひらを離せば、それはやや不躾な印象を与えるかもしれない。それぐらいの距離感で、ぼくと人妻の皮膚が触れそうで触れない位置にある。ぼくはなかなかスマホを取り出すことができない。ひさしぶりに女のひとと体温を交換しそうになっていて、そこにはほのかな恋慕のようなものもある。ずっとこのまま、まったりとした仮想恋愛をつづけていたかった。 子供らがじっとこっちを眺めている。

メールが遅れたいいわけに、ひろがちょっとグズったことにした。失策を犯すたびに、相手の底意がわかりかねてしまう。なるべく善良でいるようつとめるのはそのためにも大事なことだと痛感した。

しかし正直でいることだけがどうしてもできない。 ぼくが元恋人の里女さんに、「でていってほしい」といえなかったのと同様、真菜加に「人妻と手を繋ぎかけていてメールできなかった」とはとてもいえない。いったところで「あらあら。おさかん」ぐらいしか返答がないことは分かっていた。ひとにいえないような行為はすべきでない。正論はいつもわかっていて、あたまのなかで鳴りすぎるほどに鳴りひびいている。しかしどうしてそうも前向きにこの現代を生きなければならないのか? 明日になにも予定のない、幸福のない、刺激のない、ぼくのこの毎日で? できる限り真実に誠実であろうとする態度をどうして維持していくべきなのだろう。

もうすぐひろが2歳3か月の月誕生日をむかえるころ、仕事と生活に疲れて育児放棄の寸前までいっている真菜加の代わりに、ひろの寝かしつけをして(これが二回目で、ぼくはうっすらとした不安感を覚え始めた)、マンションから帰ろうとすると、真菜加が、「中野と離婚するかも。わたしと中野が別れたら、事実婚する?」と声をかけてきた。

ぼくは「中野さんと離婚するならおれはたぶん逃げるよ。お迎え代行もひろがイヤイヤに入る前までだよ。おれはそういうヤツだよ。ほんとにクズだからね。ちょっとひろに関わりすぎてしまったよ」と言って、途中から寝てしまった(あるいは寝たふりかもしれない)真菜加に毛布を掛け、部屋をあとにする。

ひろはまだことばを発する気配がない。

 

小説の締めくくりはどうなるのだろう、と読みながら考えていたが、読めば読むほどに味わいの増すような結末だった。これについてはさすがにネタバれは控える。 この小説を読んだあとだと、なぜだかわからないが、雑誌に載っているほかの文章がすべて薄汚れて感じられ、生理的に読むことを拒んだ。