INSTANT KARMA

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カラマーゾフの兄弟

暑いので、外に出ず、カラマーゾフの兄弟とその解説書を断片的に読みながら過ごす。

読むたびに、ドストエフスキーの作品の中には小説の中で表現できることのすべてが表現されていると感じる。最も高貴なことから最も卑俗なことまで。最も深刻なことから最も軽薄なことまで。

主人公(アレクセイ)の尊敬する教父ゾシマ長老が亡くなり、腐臭が漂い始める。

生前ゾシマを聖者だと思っていた人々は、彼から恩を受けた人々までが、あからさまにゾシマに不信と軽蔑を抱くのを見て、アリョーシャ(アレクセイ)の心は乱れる。

たまらなくなって呆然とするアリョーシャは、悪友の誘いで、売春婦のような生活をしているグルーシェニカという女のもとを訪ねる。

ついでに言えば、グルーシェニカは、アリョーシャの父親の愛人であり、兄からも求愛されている女である。

女は女で、昔の愛人が戻ってくるという知らせを受けて興奮し混乱している。アリョーシャが来たのを喜び、膝の上に乗って彼を抱きかかえる。純潔だが呆然状態のアリョーシャは抵抗する気も失せている。

友人から冷やかされた女は、興奮してこんな話をする。こんな話だ。

『昔あるところに、それはそれは意地の悪い女が住んでいて、ぽっくり死んでしまいました。

死ぬまでひとつとして美談がありませんでした。悪魔たちがその女をつかまえ、火の湖に投げ込みました。

そこで、その女の守護天使がそばにじっとたたずみながら考えました。

何かひとつでもこの女が行なった美談を思いだして、神さまにお伝えできないものだろうか、と。そこでふと思い出し、神さまにこう告げたのでした。この人は野菜畑で葱を一本引き抜き、乞食女に与えました、と。

すると神さまは天使に答えました。

《ではその葱を取ってきて、火の湖にいるその女に差しだしてあげなさい。それにつかまらせ、引っぱるのです。もしも湖から岸に上がれれば、そのまま天国に行かせてあげよう。でもその葱が切れてしまったら、今と同じところに残るがよい》。

天使は女のところに駆け出し、葱を差しだしました。さあ女よ、これにつかまって上がってきなさい。

そこで天使はそろそろと女を引きあげにかかりました。そしてもう一歩というところまで来たとき、湖のほかの罪びとたちが、女がひっぱり上げられるのを見て、一緒に引きあげてもらおうと女にしがみついたのです。

するとその女は、それはそれは意地の悪い人でしたから、罪びとたちを両足で蹴りおとしはじめたのでした。

《引っぱりあげてもらってるのはわたしで、あんたたちじゃない、これはわたしの葱で、あんたたちのじゃない》。

女がそう口にしたとたん、葱はぶつんとちぎれてしまいました。そして女は湖に落ち、今日の今日まで燃えつづけているのです。そこで天使は泣き出し、立ち去りました』。

アリョーシャは、女の部屋を出て、ゾシマ長老の棺が置かれている修道院に戻る。

祈祷が続けられている部屋の片隅に跪き、祈るが、いつの間にかウトウトしてしまう。

寝不足のところにもってきて、前日次兄のイワンと居酒屋で長々と、大審院がどうのこうの、キリストがどうのこうのと信仰に揺さぶりをかけるような議論をふっかけられ、疲労困憊していたのだ。

アリョーシャは夢うつつの中で、ゾシマ長老の姿を見、その声を聞く。ゾシマは、キリストと共に、カナの婚礼に出席していたのだ。

イエス・キリストが生きていた頃、貧しい家でつつましやかに開かれた婚礼の宴にイエスが招かれ、一緒に飲み食いしていたが、ワインが途中でなくなってしまった。

エスの母親もその宴に出席していて、給仕する側にいたのだが、息子に、酒がなくなったことをこっそりと告げにきた。

息子は母に、こう答えた。「婦人よ。わたしと、どんなかかわりがあるのです。わたしの時は、まだ来ていません。」母はそれを聞いて、給仕する人々に言った。「この方の言いつけ通りにして下さい。」

その後、皆に高級なワイン(実は水)が振る舞われたのだという。

さて、夢の中でゾシマ長老の声を聞いたアリョーシャは、生まれ変わったように立ち上がり、修道院を出て、大地に接吻する。

彼はなんのために大地を抱擁したのか自分でも分からなかった。彼は泣きながら、声をあげて泣きながら大地に接吻した。そして自分は大地を愛する、永遠に大地を愛すると夢中になって誓うのであった。

いったいなんのために彼は泣いたのだろう? おお、彼は無限の中から輝くあの星々に対してでさえ、感激のあまり泣きたくなったのだ。そして、自分の興奮を恥じようともしなかった。

何かある観念のようなものが、彼の理性を領せんとしているような気がする―しかもそれは、一生涯、否、永久に失われることのないものであった。

アリョーシャはその後一生の間、この一瞬のことを、どうしても忘れることができなかった。『あのとき誰かが僕の魂を訪れたのだ』と、彼は後になってよく行った。そのことばに固い信念をいだきながら…

ドストエフスキーは、このような体験をしたのに違いない、そういう体験がなければ、こういうことは書けない。

『あのとき誰がが僕の魂を訪れたのだ』と。