キリーロフは、自分は既に救われたと信じている。
なぜなら、究極の真理を悟ったから。あとは、その具体的実践の問題が残るだけだ。
オウム真理教の内部にカメラを持ち込み、信者たちの姿を曝け出した「A」「A2」というドキュメンタリー作品(森達也監督)がある。
キリーロフという人物は、そこに出てきたオウムの修行者の姿と被って仕方がない。
これは決して彼らを馬鹿にしているのではない、いや、馬鹿にしているのかもしれない。
なぜなら、それはあの頃の自分の姿でもあるからだ。
オウムにこそ入信しなかったものの、20代の自分は、「永久調和の瞬間」を垣間見たと思い込んで、「すべてはすばらしい」と思い込んでいた。
キリーロフは語る。
「人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。これがいっさい、いっさいなんです! 知る者はただちに幸福になる。その瞬間に。あの姑が死んで、女の子が一人で残される―すべてすばらしい。」
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩き潰す者がいても、やっぱりすばらしい。叩き潰さない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい。すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。僕の考えはこれですべてです。これだけ、ほかには何もありません」
ドストエフスキーは仏教の悟りや禅の教えについては何も知らなかっただろうが、いわゆる禅の悟った人たちの言うことはまさにこんな感じだ。
世界が不幸に見えるのは、あなたが世界がすばらしいことを知らないからに過ぎない。
悟りを開けば、すべてはうまくいく。そんな題名の本が今も売れている。
キリーロフは、ある意味で悟りを開いた男だ。
だから、自殺するのもしないのも自由だが、人間がゴリラの段階から進化したように、人間を「人神」へと進化させるために、自殺することによって、人間自らが神であることを示し、すべての人々に扉を開くのだ。
それで、彼がやったことは何か。
「組織の裏切り者」であるシャートフを殺害することを黙認し、遺書の中で自らが殺人者であることを認め、ピストルで自殺した。
遺書は自分で書いたのではなく、ピョートルに書かされた文章だ。
キリーロフは、なかなか自殺できなかった。業を煮やしたピョートルが部屋に入ってきたときには、部屋の隅の戸棚の陰に隠れ、ピョートルの顔に噛みつき、ピョートルに拳銃で頭を殴られ、「いますぐ、いますぐ!」と十回も叫び続けた挙句、右のこめかみに弾丸を発射した。
通風孔を開け放してある窓のそばに、足を部屋の右側に向けて、キリーロフの死体が横たわっていた。弾丸は右のこめかみに撃ちこまれ、頭蓋骨を貫通して、左の上端から抜けていた。血と脳味噌のしぶきが散っていた。ピストルは床の上に投げ出された自殺者の手に握られていた。
このおそろしく無惨な自らの死もまた、キリーロフは「すばらしい」と言い切れるのだろうか。
キリーロフが「永久調和の瞬間」を経験し、「すべてはすばらしい」という境地を味わったことがあることを自分は疑わない(それが癲癇の症状だったにしても)。
だが、キリーロフのように自殺できなかった自分は、かつて自分も確かに実感していた「永久調和の瞬間」は所詮ドラッグによる高揚感のようなものでしかないのだと今は考えている。