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吉本隆明1968

鹿島茂吉本隆明1968』を読む。

 

1950年代の初期論考に絞って書かれているので、わかりやすく面白く読めた。

 

取り上げられているテキストは、「党生活者」、「芥川龍之介の死」、「高村光太郎」、「転向論」、「『四季』派の本質」、「自立の思想的拠点」といったところで、この時期に行われた花田清輝との論争についてはまったく言及されていない。

 

花田に関する文章「芸術運動とは何か」、「アクシスの問題」、「転向ファシストの詭弁」は全集で読んだ。同時代にこれを読めば、確かに相当な衝撃(そして留飲を下げる痛快さ)であったろう。

 

同時代(特に戦後派の世代)にとっての「吉本体験」は、以下に引用する高橋源一郎の言葉に代表されるように思われる。

 

知的な意味で一目置いている同級生Nから吉本隆明の詩(「異数の世界へおりてゆく」)を読み聞かせられた時の反応。

 

Nが読み終わったとき、わたしは、自分が、数分前とは違う世界にいることに気づいた。

 

もちろん、その詩に書かれていることは、やはりほとんど理解できなかった。気づいたのは、「理解できなくてもかまわないことばがある」ということだった。

 

理解できなくとも、感じることはできるのだ。それで、ぜんぜんかまわないのだ。その時、わたしは、生まれて初めて「文学」のことばに触れて涙をこぼしていたが、それは感動したからではなかった。

 

わたしは、わたしを包んでいた「繭」を切り裂かれ、外の世界に転げ落ち、反射的にそうしたに過ぎなかった。

 

この世界には、わたしの知らないものがたくさんあるのだ。そして、それを、いつか知ることになるのだ。産まれ落ちたばかりのわたしは、震えながら、そう感じていた。

 

鹿島も、少年期に吉本を読み、「『吉本はすごい』と感じてはいましたが、どこがどうすごいのか、それを説明することは不可能だったのです。いいかえると、自分の所有している語彙と観念と関係性に、吉本特有のそれらを翻訳・転換してみせるということができなかったのです」とこの本の中で述懐している。

 

この出会い方というのは、ある意味でサブカル的である。つまり、吉本隆明という表現者によって当時の読者が与えられた衝撃の実体とは、思想というよりもひとつの情念であった。吉本が表現していたのは、一個の激しい情念であって、論理などは後付けにすぎないのだ。