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人生は驚きに充ちている

中原昌也の新刊『人生は驚きに充ちている』(新潮社)を読了。

小説以外の文章のうち、「五輪総合演出『秋元康』という悪夢」、「ショッピングモール空間探検記」の2編は過去に雑誌掲載の際に読んだことがあり、「古井由吉氏にズバリ訊く」、「21世紀のクラシック音楽体験とは? VS浅田彰」、「一斗缶4個の人生」、「廃墟が語りかけてくる」、「すき家マルクスブラック企業」、「戒厳令の昼のフランス・ツアー日誌2020・3・4−3・17」は読んだことがなかった(または読んだかもしれないが読んだ記憶がなかった)。

せっかくなので、それぞれについて感想を書いておく。

 

古井由吉氏にズバリ訊く」

1937年11月19日生まれで、2020年2月18日に亡くなった小説家・古井由吉氏との対談。表題のとおり、対談というよりは主に中原昌也古井由吉に質問するインタビューの形を取っている。2006年4月1日にジュンク堂書店池袋本店にて行われた公開対談を再編集したもの。 意外にも、というか考えれば当たり前なのだが、中原昌也のインタビュアーとしての有能さがよく表れている。僕も古井氏の作品は「杳子」「妻隠」くらいしか読んだことがなくて、この対談を読んで、「文字が訴えてくる」とか、小説を書きながらの「右手と左手の葛藤」とか、それこそ中原小説を地で行くような告白を聞くにつけ、中後期のアヴァンギャルドな(?)作品も読んでみたい思いにさせられた。あとがきによれば、古井氏は中原の父と同い年で、ほぼ同じ時期に亡くなったのだと言うが、奇しくも自分と同じところに不思議なえにしを感じた。

 

「21世紀のクラシック音楽体験とは? VS浅田彰

クラシック音楽というものを問い直そうという企画シリーズの第一弾としての対談だったらしいが、別件で編集長と揉めてしまい、この連載第一回目で終了してしまったらしい。最初に高橋悠治に対談を申し込んだが(後に判明したところでは「くだららない企画だから」という理由で)断られたという。確かにこの浅田との対談を読んでみても、「ベートーベンなどの古典音楽はやっぱりすごい」とか「パソコンで情報を確認するような音楽の聴き方ではなく、現場で体験することが大事」といった言わば当たり前のことが述べられているだけで、ハッとするような発見があるわけではない。まあ浅田彰を対談相手に選んだ時点でこうなることは分かっていたわけだが、唯一さすが中原昌也と思ったのは、浅田が「ソ連ではスターリンが直接文学者に電話して圧力をかけていた」と言ったのを即座に「僕も石原慎太郎から電話が来るのを待ってるんですけど」と返したところ。

 

「一斗缶4個の人生」

中原昌也には珍しい(?)犯罪ルポタージュという形式で、大阪市天王寺区で起こった「一斗缶バラバラ殺人事件」の現地取材を試みる。2011年の事件だが、すっかりそんな事件があったことを記憶していない。取材と言ってもたいした事実が掘り起こされるわけでもなく、事件が起こって間もない時期の取材なので、「現場を見に行った」という以上の意味はあまりない。2011年と言えば何と言っても3・11のインパクトが大きく、その他の事件はもう背景に翳んでしまう。中原のこの文章も、9・11原発デモで友人が逮捕されたというエピソードから始まっている。3・11についての中原のスタンスは、次の章で明らかにされることになる。

 

「廃墟が語りかけてくる」

3・11からもうすぐ2年が経つという時期に、福島に行った体験を綴ったルポタージュ。南相馬市小高区には、同じ時期に自分も行ったことがあり、共感を持つと同時に、もう遥か昔のことに思えて、時間経過の感覚がよく分からなくなってくる。東日本大震災原発事故からあと半年くらいで10年になるのだが、何かが解決したとか変わったとかいうことはなく、逆に何かが決定的に壊滅したということもなく、ダラダラと退屈でくだらない時間が無駄に過ぎているだけ、という感覚が日増しに痛感されてくるだけ。このことについては後にまた触れる機会があろう。

 

「五輪総合演出『秋元康』という悪夢」

2014年3月に書かれた文章だが、当時は2020年に世界が、そして日本がこんなことになっているとは誰も夢にも思わず、東京オリンピックで世界に冠たるニッポンを再びアピールできるものと信じている人が大半だった(と思う)。そんな時期に五輪式典の総合演出を「AKBグループ総帥」天下の秋元康にやってもらおうと期待の声が高まる中、「真に良識ある文化人」を代表して思い切り冷や水を浴びせたのが中原のこの文章だ。しごくもっともなことし書かれておらず、中原昌也独特のイロニーもウイットも敢えて抑えて直球の批判を行っている。世の中にはこうした中原の反体制的言論を陳腐だと捉える向きもあるようだが、僕に言わせれば、むしろこうした文章があるからこそ彼が今の世で信頼できる数少ない(ほとんど唯一?)作家の一人であると確認できるのである。

 

すき家マルクスブラック企業

すき家」の社長が全共闘マルクス主義活動家であったことを指摘した評論家が他にどれほどいるのか全く知らないが、現代のブラック企業の問題と絡めて資本主義に開き直った全共闘世代の滑稽さ・醜悪さを白日に晒して見せた中原昌也に拍手を送りたい、という気分にしかならない。かつての沢木耕太郎とかならまた違ったルポタージュに仕上がったと思うが、現代において中原のような視点をブレずに提示する文章家が(いわゆる「リベラル派や左翼の人たち」以外で)ほとんど絶無になってしまったことの方が怖い。

 

「ショッピングモール空間探検記」

僕も(買い物以外の目的で)立川のIKEAを訪れることがしばしばあり、共感を持ちながら読んだ。

 

戒厳令の昼のフランス・ツアー日誌2020・3・4−3・17」

これが直近の文章で、まさにコロナ禍が欧州を飲み込まんとする時期に欧州を演奏ツアーで旅した中原の旅行記である。冒頭の文章にあまりにも共感したので引用させてほしい。

 残念ながら日本という国はもう終わっているし、このままどれだけ長く住んでいても、ただただ退屈な時間が無駄に過ぎてゆくだけであり、ともかく何よりもこの国を代表していると思い込んでいる人間たちの愚鈍さには我慢がならないのであった。(中略)安倍、菅、麻生といったクズの面に毎日お目にかかるのも、もううんざりだし、そのうんざり具合に国から賠償金をいただきたいくらいである。ああいう何にも偉くない、何もしないクズが生きてて、同じ空気を吸っているというだけで、こちらの生活にネガティブな支障が生じて吐き気がする。  

   理由なんて、どうでもいい。あんな連中の存在自体がただただ不愉快で息苦しい。

   そんなことしか毎日感じていない。息が苦しい。クズどもの横暴が不愉快である。  明らかに犯罪者が権力者として君臨する、愚かな国。ここで過ごす毎日など、およそ健康的とは言えず、何が何でも外の空気が吸いたい気分であった。

この国に言論の自由があるというのなら、誰もが思っている(はずの)この程度のことが他の作家にはどうして書けないのか。思っていることを正直に書けないということを「忖度」というのであればほとんどすべての作家は忖度しっ放しではないのか。この国で正直な作家は中原昌也しかいないのではないか。 よく「このままでは日本は終わる」などと未だに言う人々がいるが、もうとっくに終わってるんだよこの国は。「このまま」を何十年も続けた挙句、今や我々は終了後の世界を生きているのにすぎない。そんなことも中原昌也に指摘されて初めて気づく(あるいはそれでもまだ気づかない)愚鈍な人間たちが今更どうのこうの言っても仕方がない。 安倍や麻生といった愚鈍の代表者たちがたとえ引きずりおろされた所で(そんなことも起こらないだろうが)、愚鈍な人々が愚鈍でなくなるわけではない。要するに「残念ながら日本という国はもう終わっているし、このままどれだけ長く住んでいても、ただただ退屈な時間が無駄に過ぎてゆくだけであ」る。その事実を直視しないいかなる表現もゴミにすぎない。

この旅行記で一番「へえ〜」と思ったのは、中原昌也に同居中のパートナーがいて、一緒に欧米ツアーに行ったと書いていたことだ。IKEAを取材していた頃は両親のいる実家で仕事に集中できずファミレスで原稿を書いていたということだから、2015年から今年までの間に引っ越して彼女(英語にも堪能でホテルの予約とかもしてくれる知的で有能な女性のようだ)と同居するようになったというのか。それはよかったナ、とまるで心配していた友人のことのようにほっこりした。

しかし旅行記の最後に、パートナーのパスポートが盗難に遭って一人で帰ることになった、と書いてあるだけで、その後彼女がどうなったのかには全く触れていないのがまた中原昌也らしい。 このテキストに併せてお勧めしたいのは、菊地成孔 / 甲斐田祐輔戒厳令下の新宿』というルポ映像である。丁度中原昌也が帰国した直後の東京の映像が収められている。

あとがきで中原は、30代40代は悪夢のような重圧を感じながら執筆していたが、この旅行記は、かつてないくらい、ほっといてもスラスラ書けたという。「これを書いているのは50歳になる前日(註:2020年6月3日)なのだが、残りの人生もこうした楽しい仕事で終わるように心がけたい! と願う。」と締め括られている。自分も彼と同じ年齢であり心からの共感を持った。 ちなみに昨日立ち寄った中野のタコシェという本屋で、中原昌也のサイン本手渡し会が行われていたのだが、ニアミスで直接お会いできなかったのが今となっては残念である。