War Is Over

 if you want it

破局

今の時代精神みたいなのを探る参考のため、芥川賞の受賞作は気が付いたらチェックすることにしている。もはや「純文学」のありがたさなどないし、そもそも純文学など存在しないのかもしれない。それでも、いわゆるエンタメとは違った何かは表現されているはずだ。

今月号の文藝春秋に掲載されていた、第163回芥川賞受賞作、『首里の馬』(高山羽根子)と『破局』(遠野遥)を読んでみた。

首里の馬』は、沖縄を舞台に、主人公の若い女性の視点から描かれる物語で、いくつかのフィクショナルな設定に若干の不自然さを感じたものの、情報化社会と人間の実存というテーマを扱った良作という印象。作者の力量も感じられた。

さて問題は『破局』の方で、一読してこれまでにない薄気味の悪さを感じた。

その作品が読者にもたらす効果は、ドストエフスキー『悪霊』の「スタヴローギンの告白」を読んだときの味わいに近い。しかし、薄気味の悪さという感覚は同じでも、その感覚をもたらした要因は全く異なっている(後述)。

カミュの『異邦人』に擬えた感想もあるが、主人公の言動が時折不条理っぽいという以外には何の共通点もない。むしろ読者の感覚を裏切ってくる描写の運び方は中原昌也に近い。

不気味なのは、この主人公の内面は作者自身のものと本質的に同じであることが読んでいて伝わってくるからで(そのことは作者本人も認めている)、この小説がリアリティを感じさせるのはまさにその点においてであるということなのだ。

虫唾を催させる手記を執筆したスタヴローギン(魂とか良心を持たない男)は当然ながらドストエフスキーの小説における創造物であるが、この陽介という主人公は内面的に作者の分身としか読めないのだ。

これがサイコ・ホラーというジャンルのエンタメ小説ではなく、芥川賞を受賞した「純文学」小説であるという事実は、確かに今の時代状況を反映しているといえるだろう。