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『私をくいとめて』感想

※ネタバレ全開のため、映画鑑賞後に読まれることをお勧めします

 

 

新宿テアトルで公開初日を見に行った。夕方の部で、客の入りは半分くらい。

明日は土曜日で、舞台挨拶もあるので、満員御礼となろう。

僕が映画を見た個人的な意見として、結論から言えば、非常に微妙な作品だった、というのが今の率直な感想だ。

このブログの過去記事を読んでいただければわかると思うが、私はのん(能年玲奈)の信奉者であるといっていいくらいの熱烈なファンである。彼女は芸能界のみならず今の日本の宝だと思っているし、今後も彼女の活動に熱い視線を送り続けることは疑いない。それだけに、彼女の関わった作品を全て無条件に称賛するのではなく、時には不快なことも率直に語らねばならないと思う。

彼女のファンの方は、どうか怒らずに最後まで読んでほしい。

この映画『私をくいとめて』は、もともと綿矢りさの同タイトルの小説を映画化したものだ。

当初は原作小説を読まずに見るつもりだったが、映画公開初日に、ホームページで原作が期間限定で全文公開されていたので、少し迷ったが、それを読んでから見に行った。

結果的に、原作を読んでおいてよかったと思う。もし読んでいなかったら、映画を見ながら頭の中に浮かんだ疑問符がさらに拡大されていたことだろう。

映画のチラシの「ストーリー」には、こう書かれている。

「おひとりさまライフを気ままにエンジョイするみつ子、31歳。みつ子が一人で楽しく生きているのにはワケがある。それは脳内に生まれた頼れる相談役=A。人間関係や身の振り方に悩んだときは、Aがいつでも正しい答え(アンサー)をくれる。Aと一緒に平和でゆるゆるとしたおひとりさまの毎日が続くと思っていたある日、うっかり!年下の営業マン多田くんに恋をしてしまった!おそらくは両想いだろうと信じて、20代と30代の恋愛の違いを痛感しながら、みつ子はAと共に勇気を振り絞り、失敗したら立ち直れないダメージを負ってしまう31歳 崖っぷちの恋愛に踏み出そうとする…。」

この要約は、決して間違いでも不適切でもないのだが、微妙に表現に問題がある。その微妙さがそのままこの映画のもつ微妙さにつながっている気がする。

まず、これは原作自体の問題でもあるのだが、「脳内相談役A」というのが何なのかがよく分からない。映画はみつ子と「A」の対話場面から始まり、もちろん映画のシーンではAの声が聞こえるのだが、それに声を出して答えているみつ子は客観的に見れば虚空に向けて独り言を発しているだけである。

みつ子は自分の部屋の中だけでなく、外でも同じような調子なので、周囲からおかしな目で見られるシーンもある。

前知識のない観客には、「A」がみつ子の無意識(深層心理)の声なのか、脳内対話の相手方としてみつ子が作り上げた妄想の産物なのか判然としない。

しばらくすると、Aはみつ子とは別人格を持っているが、みつ子自身でもあるということが明かされる。ではみつ子は統合失調症ではないかということになるのだが、Aは常時存在するわけではなく、みつ子が悩んだ時の「相談役」として出現することになっている。この設定に普通の観客なら違和感を持ち戸惑うだろう。しかし映画を見続けるためには、まあそういうものだとしてとりあえず不問にするより仕方がない。

みつ子が恋に落ちる相手方の男性・多田くんは、みつ子より2歳年下の設定である。みつ子は、原作では33歳だが、のんが余りにも若く見えるので、映画では31歳と言うことになっている(この点については後述する)。

多田くんはみつ子の会社の取引先の営業マンで、多田くんにお茶を出すみつ子とは面識がある。多田くんが商店街のコロッケ屋に並んでいるのをみつ子が通りがかりに声をかけ、二人は近所に住んでいることが明らかになる。初めてコロッケ屋の前で会話した後、多田くんからの依頼で、彼がみつ子の部屋におかずをもらいに来るようになる。

多田くんが部屋に入ることを許さなかったみつ子が、葛藤の末、多田くんを部屋に上げて一緒に食べるようになったのが1年後というのは、いくらなんでも長すぎだし、初対面の会話から多田くんがみつ子にただならぬ好意を寄せているのが明らかなので、みつ子の葛藤が愚かにしか思えない。ついでに言えば、多田くんを演じる林遣都の演技が舞台役者みたいに大袈裟なのも気になった。

みつ子の職場の同僚ノゾミさん(臼田あさ美)は役相応で好演していた。ノゾミの憧れるカーター(若林拓也)は原作ではすごいイケメン(でも性格が変)設定だが映画ではただの変な奴にしか見えない。まあそれはそれでいい。問題はカーターの出てくる場面が全然面白くない(笑えない)こと。

片桐はいり演じるイカした女上司・澤田は原作ではほとんど存在感がない(出てきてない)が映画でも出番が多い割にはたいして効果的で印象的な場面がない。またこの映画は全体的に意味不明なカットが多く、そのたびに注意が妨げられる。

一番期待していた橋本愛との絡みは個人的に不満が残った。イタリアに嫁いだ親友・皐月(橋本愛)のもとへみつ子が訪ねるのだが、行きの飛行機の場面が余りに謎すぎて、何を見せられているのだろうと感じた。予算の都合だろうが、イタリアロケはしておらず、そのことがバレバレなシーンがうら寂しさを感じさせた。そして橋本愛は原作とは違い、妊娠しており、イタリアに来たことを後悔するセリフがある。二人して涙して語り合う場面は、「あまちゃん」を知る者からすれば感涙シーンのはずなのだが、映画の文脈からは浮いていて、どうも素直に感動できない。

そして、観客が戸惑うのは、コメディとしてのテンポが悪いことと並んで、時折やって来る、みつ子がシリアスな感情を爆発させるシーンが、映画にとっては過度といえる緊張感をもたらすことだ。

例えば、みつ子がイタリアに行く前に、心の準備(?)として一人で温泉に日帰り旅行に行く場面がある。そこで余興で芸人のショーがあり、女芸人がセクハラを受けるのを見て、みつ子が不快になり、それがネガティブな感情を次々に呼び起こして爆発するシーンがあるのだが、みつ子の感情の吐露が映画のムードを超えてシリアスに過ぎ、僕などは引いてしまった。

そもそも、この映画が設定しているリアリティラインやシリアスとコメディ(ユーモア)のさじ加減が最後までつかめない。その違和感が頂点に達するのが、映画の終盤、Aとの訣別(?)が起こる、ホテルでの場面に唐突に挿入される海辺のシーンである。ここは原作でも唐突に感じられるところだが、小説なのでかろうじて許される飛躍だろう。しかしこれをそのまま映像化してしまうと、完全に意味不明なものにしかならない。もし僕が原作を読まずに映画を見ていたらポカーンと口あんぐりするしかなかったと思う。

〜〜〜〜〜〜〜

ここまでは映画そのものへの感想で、小括すれば、脚本、演出ともに限りなく失敗作に近いという評価になる。

では、肝心の主演女優のん(能年玲奈)の演技はどうだったのか。

まず、演技以前の問題として、この映画の主人公みつ子は30歳を過ぎ、婚期を逃して恋人も見つからない地味なOLという人物であり、20代後半に差し掛かったとはいえ、透明で無垢なオーラを保ち続けている彼女が演じるのは不自然さを否めないということがある。

「おひとりさま」ライフを満喫する女性という意味では彼女のイメージとも被る部分もあるが、一方で恋愛に憧れる「女」の部分が彼女(の演技)からは感じられない。

今回もっとも新鮮だったのは、「A」を相手に赤裸々な感情をぶつけまくる「ぶっちゃけ」トークの演技だったと思うが、何だか「逞しさ」(それは彼女が過去数年の実生活上の経験で身に着けたものだと思う)が伝わってくるばかりで、恋人が欲しいと焦るプチお局様の切実さよりも、むしろ私は男なんか必要としないよ、という強さを感じさせた。

そして先にも指摘したように、何度かの感情を爆発させるシーンは、この映画の許容範囲を逸脱するレッドゾーンの域に達していたため、観客を感動させるというよりも、不必要に緊張させ、戸惑わせるものになっていた。

ファンの贔屓目でいえば、彼女はこの映画のスケールに収まりきるような女優ではなく、言葉本来の意味で、役不足であったという感が否めない。

橋本愛とのシーンで感じられたチグハグさについては前述したとおり。

さて、これまでネガティブなことばかり書いてしまったので、不快になられた方も多いと思う。

しかし、最後に言わなければならないのは、一ファンとして、彼女を映画のスクリーンで存分に見られたことは至上の幸福であったということである。僕はこの体験を何年待ち続けたことか。

これほど酷評すべき映画であったにもかかわらず、僕は映画館を去るときに途方もない幸福感に満たされていたのである。

この映画のヒットを祈願するとともに、再び近いうちにスクリーンで彼女の姿を拝めることへの希望を糧に明日から生きていこうと思う。