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深夜特急

バックパッカーのバイブルと言われる沢木耕太郎深夜特急を読んだが、旅に出たくなることはなかった。

海外一人旅への危険な誘惑に晒されることを恐れて今まで読まずに来たのだが、ひとつの読み物として普通に楽しめた。

この本が爆発的に受けたのは、当時このような旅行をする人がほとんどいなかったということがあるのかもしれない。この本の影響を受けて日本でもバックパッカーが大量に出現するようになったとか。

しかし東洋を放浪する西洋のヒッピーたちは当時からたくさんいて、この本にも数多く登場する。しかし沢木は彼らに対して常に一定の距離を置いて、自分のはヒッピー旅行とは違うことを強調している。

ヒッピーと沢木との違いは、社会からドロップアウトしてしまったかどうか、ということだろう。

沢木の意識の中では、たとえ一時的に日本社会の流れから離れたとしても、仕事を放棄するつもりはなく、事実、旅を終えた後にノンフィクション作品を量産している。

旅の途中で沢木も何度か、底なし沼の旅行者となる誘惑に駆られるが、その度にそれを振り払って新たに出発している。

また沢木は、旅の中で何度も買春の誘惑を受けるが、それを全て断っている。沢木の、この誘惑をきっぱりと撥ねつける態度が、この旅行記に一種の清々しさを与えている。

深夜特急』がそれまでの旅行記と違ったのは、この清冽な印象であろう。決して楽しいことばかりでなく旅の辛さもたくさん描かれているにもかかわらず、沢木の文章から滲み出る明るさと肯定感が、読者に自分も旅に出たい、という憧れを抱かせる。

彼がこの旅行記を執筆したのは、実際の旅から何年も経ってからである。その割に描写が詳細なのに驚かされるが、当時旅先から送っていた手紙と、旅行中につけていたノートの記載のおがげだという。

また『深夜特急』は、旅の目的地であったロンドンから「旅はまだ終わっていない」という電報を打つ場面で終わっているが、沢木はこの後にも旅を続けている。

しばらくヨーロッパを回った後で、いよいよ日本に帰ろうという空港での場面が、後日書かれた深夜特急ノート」』の中に出て来る。

そこでは、パリの空港で藤圭子に遭遇したことが記されており、『流星ひとつ』の中でそのエピソードが効果的に使われることになるのだが、それが読者の目に触れるのは2013年に『流星ひとつ』が出版された後のことである。

これほど「おいしい」エピソードを、永久に封印することを一旦は決意したところに、沢木の深い思いを感じる――

と書いたのだが、実はこのエピソードを含む冒頭部分のインタビューは、沢木耕太郎ノンフィクション集のあとがきでそっくり引用されていたのだった。

さすがにここまで見事な運命の悪戯を完全に葬り去るには忍びなかったのであろう。