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SOULLESS MEN

大江健三郎の『取り替え子』を読んでいて、大江作品によく登場する「批判的なジャーナリスト」が気になってネットで調べたら、本多勝一のことらしい。本多の執拗な批判は大江のメンタルに相当堪えたようだ。

本多勝一大江健三郎も大きく括れば左翼の人なので、本多の大江批判は一種の近親憎悪か内ゲバのようにも思われる。

大江は自作の中で、大江に対する批判的なコメントを取り上げて再批判を試みることがよくある。先の本多勝一もそうだが、坂本龍一の大江の息子光の作曲活動に対する、音楽活動にまでPC(ポリティカル・コレクテッドネス)を持ち込まれたらかなわない、というコメントもきっちり取り上げている。

そして、『取り替え子』の中でも大江は、自殺した伊丹十三についてのビートたけし(映画監督北野武)のコメントを冷たく批判している。

……古義人は、吾良の死を映画の仕事の行き詰まりに帰している記事に納得しなかった。イタリアの映画祭で賞を得たコメディアン出身の監督が、受賞映画のプロモーションにアメリカへ出かけて、おおいに受けたという、

――吾良さんが屋上から下を見おろした時、私の受賞が背中をチョイと押したかも知れない、というコメントを読んだ時も、こういう品性の同業者かと思っただけだ。

大江健三郎『取り替え子 チェンジリング』)

にもかかわらず、健三郎は2006年に『たけしの誰でもピカソ』という番組に息子の光と一緒に出演し、「『ソナチネ』は好きな映画だ」などと話しているのである。小説はあくまでもフィクションであり、明らかな私小説風の作品ではあってもそこに書かれた見解は作家の見解を反映しているとは限らないということなのだろうか。その後両者の間で和解のような出来事があったのだろうか。よくわからない。

そういえば、「よくわかんない」と乱暴に相手との会話を打ち切って笑いを取るという手法を最初にテレビで流行らせたのはビートたけしではないかという気がする。

もちろんそういうやり方は昔からあったのだが、話している内に支離滅裂でしどろもどろになり始めた相手に対して「よくわかんない」と言う言葉を相手に対してというよりもその会話を見ている観衆に対して叩きつけて乱暴にコミュニケーションを打ち切る一種の暴力性はたけしが初めて導入したものではないのか。

マイケル・ジャクソンムーンウォークだってヒップホップ界隈ではすでに行われていた動きをマイケルがオリジナルのように巧みに取り入れたことによって爆発的に世界に広がったのであって、新しい表現の出現とは要するにそういうことだ。

ビートルズが音楽を通して世界の意識を変えたように、ビートたけし(そしてより小さな程度ではあるがタモリやさんま)はお笑いを通して少なくとも日本人の意識をある程度変えたのだ。もっとも前者の変化が肯定的で進歩的なものと評価できるのに対して後者の変化は否定的であり後退を意味するものでしかない。

そして、我々の意識は、この「ビッグ3」(これら三者間の微妙な質的差異はとりあえず無視する)が1980年代に構築し固定化させたコミュニケーションのスタイルに2020年代の今も固定化され縛られているのである。

今の大衆音楽(ロックやポップス)が基本的にビートルズの枠組みを超えるものではないのと同じく、「ビッグ3」によって確立された笑いの枠組み、広く言えばコミュニケーション形式を根本的に改めるような表現は未だ出現していないと断じてよいと思う。

ダウンタウンの笑いが革新的だったと言われるのは、図式的には、ビートルズの音楽に対してソウルやR&Bのブラック・ミュージックがあり、そこからひいてはヒップホップやラップが出現したことに対置できる気がする。つまり、枠組み(パラダイム)そのものを改めるようなものではなく、別種の(異質な)表現を持ち込んだということである。

21世紀に入ってからの加速度的な傾向としてテレビ番組のクオリティのみならず我々の社会一般の「コミュニケーション形式」が絶望的に退屈であり、目を覆いたくなるほど退化の一途をたどり続けている原因がここにある(民主主義の機能不全と言う凡庸な言葉で表現することもできるが)。その行きつく先がSNSという無限地獄である。

SNSとは「魂を失った者たち(SOULLESS MEN)」の坩堝であり、精神的な亡者の集合体である。ここから何か我々の生活を刷新してくれるような新鮮な表現が出現することなど決して期待してはならない。

些か極論に走ってしまったが、要するにそういうことだ(と言って乱暴に議論を打ち切る行為そのものがコミュニケーション文化の退廃を示すものであるというくらいの自覚はある)。