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憂い顔の童子

大江健三郎『憂い顔の童子を読む。

『取り替え子』の続編。舞台は四国の郷里である山村。ドイツに行った妻と、東京の長女を残して、長男のアカリと共に暮らす古義人(以下「コギト」と記す)。

アメリカ人の文学研究者で、コギトの小説の舞台を調査して論文を書こうとしている中年女性ローズさんが一緒に暮らし、身の回りの世話をする。

世界的な文学賞を受賞したコギトを祭り上げて文化チックなリゾートホテルを開発しようというもくろみがあり、それを企画した昔からの知り合い黒野(以下クロノ)とスポンサーの阿部夫人に取り込まれる寸前まで行くが、阿部社長の低俗な下衆野郎ぶりに愛想をつかして決裂。

最後は昔の全共闘崩れの仲間たちとジグザグデモの虚しいパフォーマンスを行って、常々コギトのことを敵視していた地元の男に半ば暴行される形で意識を失い病院のベッドで妄想するところで完。

こう書くとなんだかどうでもいい小説にしか思えないが、そこはさすがにノーベル賞の筆力で読ませる。かつてのようないたずらに難解で晦渋な文章は鳴りを潜めたものの後味の残る適度なねばり気をもった文体は衰え知らず。

ここでも前作に続き「アレ」が問題になるが、加藤典洋(珍しく実名)の批評に対する「クソどもが」という激烈な感想と共に「アレ」の実態がほとんど明るみにされる。

ローズさんの使う「カタコト日本語」ぶりが絶妙で、想像力を掻き立てられる。

そうやって大江健三郎読者の辿る道としての果てしない自己言及と本質的に同じ物語をズラして語り続ける手法の沼にハマる手前まで来てしまった。

僕は伊丹十三の映画の中で一番印象に残っているのが「ドレミファ娘」の中で伊丹演じる大学教授風の男が訳の分からない哲学風蘊蓄をひとしきり垂れた後で矢庭にヴァイオリンを持ちバッハの無伴奏ソナタを弾くというシーンで、これは幼心に強烈なインパクトを刷り込んだ。

伊丹が監督した映画(「お葬式」や「タンポポ」)は傑作映画だしいつか観なければと思いつつ、子供の頃に「お葬式」を親と一緒にテレヴィで見ていたら、いきなり喪服の男女の青姦シーンが始まって戸惑った気まずい記憶が邪魔をして未だに見れずにいる。

今更ながらに伊丹十三の自殺の謎が気になって眠れない(嘘)。外国人のジャーナリストがヤクザに取材して、彼を拉致してビルの屋上から飛び降りさせたという証言をしっかり得ているようなのだが、なぜか報道する在邦メディアは存在していない。