INSTANT KARMA

We All Shine On

Personal Affair

大江健三郎『個人的な体験』をようやく読めた。

これはやはり名作。個人的には、志賀直哉『和解』と並ぶ私小説の傑作と思った。

もちろん厳密には私小説ではないのだが、私小説だってフィクションを含まないことはないのだから私小説でいいだろう。

構造的には、『がんばれ元気』と同じだということに気づく。

運命に立ち向かうか、そこから逃避するか。

逃避の先には自己破滅が待っている状況で、土壇場で逃げずに立ち向かうことを選ぶ、ヒロイズム。捨てられるのは女。

以下は、もっとちゃんとした感想を書くための個人的な備忘録。

*  *

第1章 6月、午後6:30

鳥(バード)は、野生の鹿のようにも昂然と優雅に陳列棚におさまっている、立派なアフリカ地図を見おろして、抑制した小さい嘆息をもらした。制服のブラウスからのぞく頸は腕に寒イボをたてた書 店員たちは、とくにバード(バード)の嘆息に注意をはらいはしなかった。夕暮が深まり、地表をおおう大気から、死んだ巨人の体温のように、夏のはじめの熱気がすっかり脱落してしまったところだ。

 書店でアフリカの自動車旅行用地図(ミシュランの西アフリカ図と中央および南アフリカ図)を買う

 大女(男娼)に声を掛けられる

 今27歳4カ月。25歳の5月に結婚したが、その夏四週間(700時間)ウイスキーを飲み続けた 大学院を退学し、義父に予備校教師を世話してもらう

 「自分自身の生活の内なる何か欠けるものと根源的な不満について徹底して考えてみることを自分が避けていることに思い至った」

 7時にゲームセンターの電話で義母に電話し妻の安否を尋ねる

 「まだ生まれてきません」

 パンチングマシンで40歳のパンチ力しかないとの結果

 ゲームセンターにいた龍の刺繍のジャンパーの若者たちと乱闘し歯を折る

 

第2章

 バード夫婦の寝室

 アフリカでファコシェール(イボ猪)に追いかけられる夢

 「すぐ病院にきてください。赤ちゃんに異常がありますから」との電話

 雨の中を自転車で病院に向かう

 診療室に三人の医師と義母 院長「まず、現物を見ますか?」クスクス笑い

 脳ヘルニア 「植物級の人間になれたら最も好運なくらいのもの」

 「お望みなら、N大学医学部付属病院に紹介します。もし、お望みなら!」

 「大学病院に運びましょう」と決心して言う 

 「もちろん、あなたは手術を拒否することができるんですよ!」

 かわいそうな、惨めな赤んぼう、と考えた

 跳び込み台に立っているような気分

 全裸で自分の委縮した性器を眺める

 救急車に同乗して大学病院へ

 義眼の医師「この赤ちゃんは早く死ぬ方がいいだろうと思いますね」

 はじめて息子を見る

 戦場で負傷したアポリネールのように頭に繃帯をまいている

 唐突に涙を流し続ける

 

第3章

 大学病院、義眼の医師、二人の消防士

 「この病院は官僚的」

 うしろめたい安堵と底ふかい恐怖感

 本館の正面玄関から義母に電話

 明日の午後、脳外科の専門医の診断結果を聴くために戻ることになる

 義父に報告するために病院を去りながらいきいきした解放感を感じる

 初夏の昼まえの最も爽快な時間

 義父に会いに行く前に床屋によってひげをそる

 大学の英文科の研究室で義父に報告

 脇机から一瓶のジョニイ・ウォーカーを持って行くよう言われる

 タクシーで火見子の部屋に行く

 

第4章

 火見子の部屋

 めちゃくちゃにちらかった居間

 シャワーする火見子を見て、裸体への不安なまでの幼い嫌悪感が沸く

 悪い手がつづくトランプ遊びからちょっと降りるように、しばらくこの世界から降りていたい

 大学二年の冬、火見子の下宿の裏の材木置場で性交した記憶(火見子初体験)

 多元的宇宙についての会話

 

「(略)…きみがいま考えている、多元的な宇宙というのは、どういうことだい?」

 バードは火見子が喜びに緊張してくるのを淡い満足感とともに眺めた。(中略)

「わたしたちがここで話しあっているでしょう、バード。わたしたちには、まずこの現実世界が、ひとつあるわけね」と火見子は話しはじめた、バードは新しくウイスキーを注いだグラスを子供のオモチャのように大切に掌にのせて聴き役にまわった。「ところで、わたしやあなたが、まったく異なった存在としてふくまれている、こことは別の、数しれない他の宇宙があるのよ、バード。わたしたちは過去の様ざまな時に、自分が生きるか死ぬかが、フィフティ・フィフティだった思い出をもっているわね。たとえばわたしは子供の時分に発疹チフスで、すんでのことに死ぬところだったわ。わたしは自分が死にむかって降るか、それとも回復への坂道をのぼるかのインター・チェンジに立った瞬間のことをはっきりおぼえているのよ。そしていま現に、あなたとおなじこの宇宙にいるわたしは生きかえる方向を選んだわけ。ところがあの瞬間に、もうひとりの私が死を選んだのよ。そしてその赤い発疹だらけのわたしの幼い死体のまわりには、死んでしまったわたしについてわずかな思い出をもつ人たちの宇宙が、進行しはじめたわけ。ねえ、バード?死と生の分岐点に立つたびに、人間は、かれが死んでしまい、かれと無関係になる宇宙と、かれがなお生きつづけ関係をたもちつづける宇宙の、ふたつの宇宙を前にするのよ。そして服を脱ぎすてるみたいにかれは、自分が死者としてしか存在しない宇宙を後に放棄して、かれが生きつづける側の宇宙にやってくるのね。そこで、ひとりの人間をめぐって、ちょうど樹木の幹から枝や葉が分れるように様々な宇宙がとびだしてゆくことになるわ。わたしの夫が自殺した時も、そのような、宇宙の細胞分裂があったのよ。このわたしは、夫が死んでしまう側の宇宙に残されたけれども、夫が自殺しないで生きつづける向うがわの宇宙には、もうひとりのわたしがかれと一緒に暮しているんだわ。

ひとりの人間が若死にしてあとに残す宇宙と、かれが死をまぬがれて生きつづけている宇宙、という形でわたしたちを囲む世界はつねに増殖してゆくのね。わたしが多元的な宇宙と呼ぶのはそういう意味なのよ。あなたも赤んぼうの死を、あまり悲しまないほうがいわ。赤んぼうを軸にして分岐したもうひとつの宇宙では、生きのびた赤んぼうをめぐる世界が展開しているんだから。そこでは幸福にうっとりした若い父親のあなたが、おめでたい噂を聞いて上機嫌のわたしと祝杯をあげているのよ。いい? バード」

 ウイスキーを飲み続けてそのまま寝てしまう

 夜中に二度外から火見子を呼ぶ声(少年と中年男)

 

第5章

 目が覚めると火見子がベッド脇で眠りながら呻いている

 二日酔いで嘔吐、火見子にレモンもらう

 予備校に行く スラヴ語研究会のデルチェフさんの話

 教室で吐く 螺旋階段を下る数分間は幸福な気分

 

第6章

 大学病院に着き、小児科の医局か特児室に行くか迷う

 これは賭けだ、と思い医局へと足を向ける

 医局で特児室に行くように言われる

 看護婦から保育器の中にいる赤んぼうを見せられる

 肝臓がない子どもの父親が医者に文句を言っている

 医者がミルクの量を塩梅したりミルクの代わりに砂糖水をあげると言う

 歩きながら恥ずかしさに熱い涙をこそこそ拭う

 入院保証金3万円はアフリカ旅行資金として貯金しておいた金額

 性欲が沸き、最も反社会的な性交を欲する

 

第7章

 火見子によるsexual healing

「そうよ、バード。あなたは、今度のことがはじまってから、まだ誰にも慰められていなかったのじゃない? それはよくないわ、バード。こういう時、いちどは過度なくらいに慰められておかないと勇猛心をふるいおこして混沌から抜け出さなければならない時に、ぬけがらになってしまっているわ」

 

第8章

 妻の病室 義母がいる

 グレープフルーツもっていくが妻はその匂いが嫌い

 炊事室で義母「早く処置してもらえないのでしょうか?」

 妻から菊比古の話をされる 男の子なら菊比古と名付けるつもりだった

 火見子の車で部屋に行き、さしあたり必要なものを持ち出す

 赤んぼうに名前がないことで病院窓口でトラブル

 火見子の部屋で赤ん坊の死を告げる電話が来るのを待つ

 

第9章

 火見子の赤いスポーツ・カーで予備校へ 理事長と会話

 教え子の少年から外国人観光客のガイドを勧められる

 デルチェフさんについての緊急集会出席の要請

 火見子の部屋にもう一人大柄な女(元同級生、深夜放送の女プロデューサー)がいる

 火見子から自殺しないでくれと言われる(火見子の夫もバードの父も自殺)

 女プロデューサーから自己欺瞞を批判される

「あなたはいま、まさに袋小路にいるのよ、バード」

「しかし、ぼくの妻に異常児が生れたのは、単なるアクシデントでぼくらに責任はない。そしてぼくが赤んぼうをただちにひねりつぶしてしまうほどタフな悪漢でもなければ、どのように致命的な赤んぼうであれ、医者たちを総動員し、細心の注意をはらってなんとか生きのびさせよう、とするほどタフな善人でもないとすれば、ぼくはかれを大学病院にあずけておいて、自然な衰弱死を選ばせるほかなにもできはしないよ。そのあげくぼくが自己欺瞞の病気にかかり、猫イラズを喰ったうえに袋小路へ駆けこんだドブ鼠みたいなことになるにしても、それはもうぼくにどうすることもできないよ」

「そうじゃなく、バード、あなたは、タフな悪漢か、タフな善人のどちらかになるべきだったのよ」

 火見子は「あの人は嫉妬したのよ」というがバードは無傷ではいられない

 

第10章

 火見子の部屋で呆然とテレビを見ながら待機

 バードのアフリカ熱は火見子に移ってしまったようになる

火見子が膝にのせていたアフリカ人の小説、エイモス・チュチュオーラの《幽鬼の森における我が生活》を床におとして体をのりだし腕をさし伸べるとテレビの音量を高めた。それでもなお鳥は、自分の眼が見ている画面、自分の耳が聞いている音声から、とくに働きかけを受けなかった。鳥は呆然とテレビを眺めたまま待機しているだけだ。また暫くたって、火見子が、膝と片手を床について腕をさし伸べ、スイッチを切った。あざやかに燃えたつ白銀色の点が、すばやく後退し消滅する。それは純粋に抽象化された死の形だ。するどい印象をうけて鳥は、あっ、と小さく短い叫び声をあげた。いま、おれの奇怪な赤んぼうが死んだのかもしれない、とかれは感じたのだった。かれは、朝から、この夜ふけにいたるまで、ただひたすら電話連絡をまち、パンとハムと麦酒で食事をし、火見子とくりかえし性交するほかになにもしなかったし(アフリカの地図を見たり、アフリカ人の小説を読んだりすることすらしなかった。いまや、鳥のアフリカ熱は火見子に移ってしまったようで火見子は地図と小説に夢中だった)考えることといえば、かれの赤んぼうの死についてだけだった。

 フルシチョフの核実験再開のニュースにも何も感じない

  ※1961年8月31日,ソ連政府は核実験再開を声明

「きみや、きみの死んだ御主人などと一緒に、たびたびデモに行った学生の時分ほど、国際情勢や、政府の態度に敏感じゃないね。しかし核兵器についてだけはずっと関心を持ってきたし、友人たちとのスラブ語研究会の唯一の政治活動は核兵器廃止のアッピールに参加することだった。したがってフルシチョフが核実験を再開したということになればショックを受けてしかるべき筈なんだが、ぼくはテレビをずっと眺めていて、なにも感じなかったね」

「バード……」と火見子は口ごもった。

「ぼくの神経は赤んぼうの問題にだけかかずらっていて、それ以外のものには反応しなくなったという感じだ」とバードは漠然とした不安にかられていった。

「そうよ、バード。あなたは今日、十五時間ものあいだ、赤ちゃんがもう衰弱死したかどうか、ということしかしゃべらなかったわ」

「確かに、ぼくの頭はいま赤んぼうの幻影に占領されているよ。ぼくは赤んぼうのイメージの泉に潜っているみたいだ」

「正常じゃないわ、バード。もし、赤ちゃんがなかなか衰弱死しなくて、この状態が百日もつづいたら、あなたは発狂するわ、バード」

「これは僕個人に限った、まったく個人的な体験だ」とバードは言った。「個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞穴をどんどん進んでいくと、やがては人間一般にかかわる真実の展望にひらける抜け道に出ることのできる、そういう体験はあるはずだろう?ところがいまぼくの個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、絶望的に深く掘り進んでいることにすぎない。おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生れない。不毛で恥かしいだけの厭らしい穴掘りだ、ぼくのトム・ソウヤーはやたらに深い竪穴の底で気が狂ってしまうのかもしれないや」

 医者と看護婦が赤んぼうに濃縮ミルクを飲ませているのではとの妄想

 医者と二人で特児室の赤ん坊を眺める

 衰弱しているようには見えず、いくらか大きくなってさえいた

 医者に改めて希望を念おししなかったことを後悔する

 赤ん坊の姿勢と身振りを無意識のうちに模倣しているのに気づく

 友人にデルチェフさんの説得にバードが一人で行くことを承知する

 新宿の狭い路地に或るデルチェフと女友達の部屋を訪ねる

 デルチェフからバードが赤んぼうを拒否していることを非難される

——バード、きみの赤ちゃんは生れたかね?とデルチェフさんがいった。

——生れました、しかし異常児で、ぼくはいま赤んぼうが衰弱死するのを待っているところです、とバードは理由もなく告白したい衝動にかられていった。頭がふたつあるように見えるほどひどい症状の脳ヘルニアなんですよ。

——なぜ、手術しないで衰弱死するのを待っている?とデルチェフさんが微笑をおさめ猛だけしいほど男っぽく剽悍な表情をみなぎらせていった。

——ぼくの赤んぼうが手術をうけて正常に育つ可能性は百分の一もありません、とバードはたじろいでいった。

——カフカが父親への手紙に書いている言葉ですが、子供に対して親ができることは、やってくる赤んぼうを迎えてやることだけです。きみは赤んぼうを迎えてやるかわりに、かれを、拒んでいるのですか?父親だからといって他の生命を拒否するエゴイズムが許されるかね?

 彼の国の言葉を英語で引く小さな辞書をもらう

 故国の言葉で「希望」とサインしてもらう

 

第11章 日曜日

 火見子の義父が部屋に来る

 火見子と一緒にアフリカに行くことを勧められる

 火見子との快楽のみを目的とした長々しい交尾

 深夜電話が来て、明日午前11時に副院長室に来るよう告げられる

 赤ん坊が衰弱死したと思い込むが、手術の相談ではないかと疑う

 眠っているバードを見る火見子視点の描写

 医者たちから手術が可能であることを告げられるが拒否する

 赤ん坊を持って行くよう言われる

 今日の午後に受け取りに来るといって、火見子の車に向かう

 火見子から、赤ん坊をどこに持って行くのかと問われ戸惑う

 火見子の知り合いの医師(以前夜部屋にきた中年男)に預けることを提案される

 黒々とした曇り空の中を火見子の車で中年医師の病院に向かう 

 細やかな雨が降ってきて、オープンカーに幌を付けるよう言う

 

第12章

 火見子の家で台所から焦げたニンニクとソーセージの匂い

 デルチェフさんのことを考える

 MG(スポーツ・カー)のタイヤが盗まれ、ライトが一つ壊れる

 犯人は少年だと火見子が言う

 特児室に赤ん坊を受け取りに行く

 看護婦にもってきた着物類を渡すが帽子だけ突き返される

 事務室の窓口で名前をきかれて菊比古と答える

 保証金があらかた戻ってくる

 火見子が菊比古というゲイ・バーを知っているという

 「今夜はゲイ・バー《菊比古》でずっと飲んでいよう、お通夜だ」

 特児室で医者から考え直さないかと言われるが頑なに断る

 何度目かの通り雨の中、火見子の運転するMGに菊比古の寝籠を抱えて乗り込み出発

 腕時計がだめになっている

 ラジオニュースで日本の原水協ソビエトの核実験支持

 車の前方に死んだ雀 よけようとして穴ぼこにタイヤが落ちる

 車に乗りんこんでからはじめて赤ん坊の顔を見る

 窒息しかけているような表情で、大声で泣き始める

ほんの一センチほどの糸きれのように硬く閉じた眼はまったく乾かせたまま、小刻みに身震いしながら、果てしなく、アイ、アイ、アイ、イヤー、イヤー、イヤー、イエー、イエ、イエ、イエー、と赤んぼうは泣きたてた。バードは恐慌からのがれたとたんに、こんどは叫びたてる赤んぼうの薔薇色ばらいろの唇を掌てのひらで覆おおってしまおうとして、新しい恐慌の感情とともにそれを危うく抑制した。

 

赤んぼうは、なおも、アイ、アイ、アイ、イヤー、イヤー、イヤー、イエー、イエー、イエー、イエーと泣き叫んだ。 

 車を停め、薬局におしゃぶりを買いに走る火見子

 火見子の後姿を見ながら教育を持ち腐れた憐憫を感じる

彼女はおそらく終生自分の子どもを生むこともないだろう。バードは大学の初学年のころの、そろって生きいきした女子学生たちのグループのなかのもっとも生きいきとした火見子のことを思い出し、泥水をはねちらして不器用な犬のように駈けて行った現在の火見子に憐憫を感じた

 薬局の時計は4時、おそらく5時までには着ける

 5時半になっても道に迷って堂々巡りをし、病院にたどり着けない

 執拗な眠気を感じる。火見子も眠いという

 霧が深く、ライトをつけると片側だけ点る

 交番から警官が出てきて制止される

 警官に病院の場所を聞き、赤ん坊の瘤を見せる

 病院でシミだらけの白衣を着た卵型の頭の男が出迎える

 

第13章

 修理工場に車を置いてタクシーでゲイ・バー《菊比古》に行く

 カウンターの向こうに地方都市での年少の友人がいる

 あいかわらず、バードが綽名?もう7年にもなるのに

 菊比古はまだ22歳だがしたたかな大人にも15歳の要素を残しているようにも見える

 菊比古に、今のあなたは恐怖心にとても敏感そうだなあ、怖がって尻尾をまいている感じだなあと挑発される

「ぼくはもう二十歳じゃないのでね」とバード(バード)はいった。

「かれは昔のかれならず」と菊比古はじつに冷たい他人の表情をむきだしていうと、思いきりよく火見子の傍へ移っていった。

 

「数秒後、突然に、かれの体の奥底で、なにかじつに堅固で巨大なものがむっくり起きあがった。バードは今胃に流しこんだばかりのウイスキーをいささかの抵抗もなしに吐いた。菊比古が素早くカウンターをぬぐい、コップの水をさしだしてくれたが、バードは茫然として宙を見つめているだけだった。おれは赤んぼうの怪物から、恥しらずなことを無数につみ重ねて逃れながら、いったいなにをまもろうとしたのか? いったいどのようなおれ自身をまもりぬくべく試みたのか? とバードは考え、そして不意に愕然としたのだった。答えは、ゼロだ。」

 

「ぼくは赤んぼうを大学病院につれ戻して手術をうけさせることにした。ぼくはもう逃げまわることをやめた」といった。

「あなたは逃げまわっていないじゃない?どうしたの、バード。いまさら手術などと」と火見子が訝かしげに問いかえした。

「あの赤んぼうが生れた朝から今までずっと、ぼくは逃げまわっていたんだ」とバードは確信をこめていった。

「いま、あなたは、自分の手とわたしの手を汚して赤んぼうを殺しつつあるのよ。それは逃げまわっていることじゃないでしょう?そしてわたしたちはアフリカへ出発するんだから!」

「いや、ぼくはあの堕胎医に赤んぼうをまかせてここへ逃げてきたんだ」とバードは頑強にいった。「そして逃げつづけ、逃げのびてゆく最後の土地としてアフリカを思いえがいていたんだ。きみ自身も、やはり逃げているのさ。公金拐帯犯と一緒に逃げているキャバレーの女みたいなものにすぎないよ」

「わたしは自分の手を汚して立ちむかっているわ、逃げてはいないわ」と火見子がヒステリー症状の深みにおちこみながら叫んだ。

 

「赤んぼうの怪物から逃げだすかわりに、正面から立ちむかう欺瞞なしの方法は、自分の手で直接に縊り殺すか、あるいはかれをひきうけて育ててゆくかの、ふたつしかない。始めからわかっていたことだが、ぼくはそれを認める勇気に欠けていたんだ」

 

「バード、赤ちゃんはいま肺炎をおこしかけているのよ、大学病院へつれ戻すにしても、途中の車のなかで赤ちゃんは死んでしまうわ。そうなれば、あなたは逮捕されるほかない」

「そういうことになれば、それこそぼくが自分の手で直接に殺したわけだ。ぼくは逮捕されてしかるべきだ。ぼくは責任をとるだろう」

 

「手術して赤ちゃんの生命を救ったとしても、それがなにになるの?バードバード。かれは植物的な存在でしかないといったでしょう?あなたは自分自身を不幸にするばかりか、この世界にとってまったく無意味な存在をひとつ生きのびさせることになるだけよ。それが赤ちゃんのためだとでも考えるの?バード」

「それはぼく自身のためだ。ぼくが逃げまわりつづける男であることを止めるためだ」とバードはいった。

しかし火見子はなお、理解しようとしなかった。彼女は疑わしげに、あるいは挑むように、バードバードを睨みつけ、眼いっぱいに湧きおこる涙をものともせず薄笑いをうかべようとつとめながら、

「植物みたいな機能の赤んぼうをむりやり、生きつづけさせるのが、バードの新しく獲得したヒューマニズム?」と嘲弄した。

「ぼくは逃げまわって責任を回避しつづける男でなくなりたいだけだ」とバードバードは屈せずいった。

 

かれがひろったタクシーは雨に濡れた舗道をすさまじい速度で疾走した。もし、おれがいま赤んぼうを救いだすまえに事故死すれば、おれのこれまでの二十七年の生活はすべて無意味になってしまう、とバードは考えた。かつてあじわったことのない深甚な恐怖感がバードをとらえた。 

* *

秋の終わり、手術の後のバード、妻、義父、義母との会話