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大江健三郎『さようなら、私の本よ!』『水死』を読んだ。

「全小説4」収録の「父よ、あなたはどこへ行くのか?」「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」「みずから我が涙をぬぐいたまう日」も目を通しては見たが、文章が捻りすぎてちょっと受け付けなかった。こういうのは、丁度いい捻り加減というものがあって、中原昌也くらいが自分にはちょうどいい。筒井康隆のスタイルに影響を受けたのか、それとも筒井が大江の影響を受けたのか、ガルシア・マルケスなど海外のマジック・リアリズムの影響か。そういう時代だったのだろう。しかし今の目で読むのはきつい。冒頭の二つの作品は、二十一世紀に入ってから書かれたものなので、文章は読み易い。だが、大江作品の構造的な読みにくさは健在で、過去の自作への再三の言及、海外の文学作品の引用、故意に一読で意味を読み取ることを難しくした文体など、大江の愛読者以外には閉ざされた作品とはなっていると思う。

『さようなら、私の本よ!』は、『取り替え子』『憂い顔の童子に続く「おかしな二人組」三部作の最終シリーズということになっており、本巻では、911後の国際テロリズムの世界をドストエフスキーの『悪霊』などを参照しながら現代世界に当てはめていき、著者もそれに巻き込まれていくといったもの。同時代性を失うまいとする作家の鋭敏な目配りは感じるが、ちょっと無理している感が否めないのは、テロ計画の荒唐無稽さが中途半端なのと、全体的に語りが平板なせいだろう。

『水死』は、「おかしな二人組シリーズ」終了後ほとんど立て続けに出された書き下ろし長編で、過去作で重要なテーマとなっている「父の死」という問題を最終的に掘り下げ一つの結論に導く作品であると同時に、大江自身の小説作品の最後を意識して書かれてもいる。前述の三作品(「父よ、あなたはどこへ行くのか?」「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」「みずから我が涙をぬぐいたまう日」)を前提とした物語の運びとなっており、『取り替え子』以来の「アレ」に纏わる登場人物・大黄が最後に重要な役割を果たす。締めくくりは見事で、読後感は万延元年のフットボールに匹敵する。おそらく大江健三郎の最後の傑作となる小説である。二十一世紀の大江小説では、女性登場人物がどんどん優位になり物語への支配を強めていくが、『水死』でも、ほとんど受け身の作家に対し、妹や妻や娘や知り合いの女性が物語を引っ張っていく。この傾向は次回作『晩年様式集』でもますます加速し、作家自身とその過去の作品を糾弾し追い詰めるまでになる。

最初期から最晩年に至る一連の「大江健三郎小説」の山脈をつくづくと眺めるとき、彼こそが日本近代文学における最高の作家であるという小谷野敦の意見に賛同せざるを得ない自分を感じる。

三島由紀夫は、谷崎潤一郎が死んだとき、日本の小説は谷崎の死までは「谷崎朝」の時代であったと書いたという。歴史的なスパンで見れば、日本近代文学は、大きく言って、「夏目漱石谷崎潤一郎大江健三郎」という「王朝」の系譜として捉えられることになるのではないか?