War Is Over

 if you want it

抱擁家族

今年に入ってから、ほぼひと月ごとに文学作品により衝撃を受け続けるという幸福な体験をしている。これは読書冥利に尽きるというものであろう。

これまでいかに小説、とりわけ日本の戦後文学というものを読んでこなかったかという自分の不勉強ぶりを痛感させられる出来事でもある。

ここに新たに小島信夫抱擁家族』という衝撃の体験が加わった。藤枝静男『空気頭』に匹敵する、否ある意味ではそれらを超える作品であった。

強いて言えば、『空気頭』の衝撃が、文学的発想の衝撃とすれば、『抱擁家族』のそれは、文体の衝撃である。

自分が小島信夫の文体から連想したのは、谷岡ヤスジのギャグ漫画だった。あれと似たようなことを小説でやっている(といっても僕は谷岡ヤスジの漫画はほとんど読んだことがないのですが)。

(以下、藤枝静男「みな生きもの みな死にもの」より引用)

五年前のことだったか、六年前のことだったか、思い出せない或る日、私は用事があって上京して講談社に行き、手の空いた編集者の一人に案内されて直ぐ近くの大塚警察署の隣の角にある小さな喫茶店に行った。

そこへ裏手にある同社の缶詰部屋に泊まっているという小島信夫氏が来たので私は初対面の挨拶をし

「あなたの長編連載小説『別れる理由』は、毎号拝見している、と云うよりはむしろ愛読しています。あなたは自分でなんと思っているか知りませんが、僕は勝手にあれば『個小説』と呼ぶと好いがと思って愛読しています」

と云ってその理由を述べた。 (中略) こんな分かり切ったことを念を押したうえで

「僕自身の小説は狭苦しいうえに得手勝手で貧相な私小説ですが、しかしこの浸透圧によって読む人と交流できるようには書かれていると信じます。とにかくその工夫はしているのです。貴方の『別れる理由』は全くの自分本位、自分勝手な小説で、今のところではいったい何を書こうとしているのか、モティーフがあるのかないのか、さっぱり分からぬ五里霧中で、もちろん各部の演ずる役割を飲みこめもしません。 僕はあの小説は浸透圧を無視していると感じます、けれども僕にはそこが面白くてたまらんのです。興味が非常にありますから毎号愛読しています。貴方のあれは『私』に輪をかけた『個小説』と呼ぶべきもので、僕はこういう跳躍的前衛的試みが大好きです。『潮』に連載中の長編作家伝もヘルンあたりからは形が同じようになってきて呆気にとられていますが、これにもまた魅せられます」

「そうですか」 と小島氏は云ったきりで、ほとんど反応しなかった。むしろ浮かない顔をしていたという記憶がある。

藤枝のこの文章には、文学の前衛的手法の興味深い具体例についての記述が続くのであるが、ここでは割愛する。

「浸透圧を無視した『個小説』」という指摘は、『別れる理由』(未読)や、今途中まで読みかけている『美濃』以降の小説に当てはまると思うのだが、『抱擁家族』にもその萌芽は見られる。

僕は『抱擁家族』を読み終えると同時に、この小説が、上野千鶴子小倉千加子富岡多恵子による『男流文学論』でも取り上げられていたのを思い出し、その中身を忘れていたので(読んだ当時は島尾敏夫『死の棘』の評価に関心があったため)、再読への強い欲求に駆られた。 この特異な小説、とりわけその文体について、富岡多恵子がどのような評価を下しているのかを知りたかったからだ。早速図書館に走った。

対談では、主導的な役割を果たす上野千鶴子江藤淳『成熟と喪失』を引き合いに出して、「近代産業社会の女性の自己嫌悪」や「母性の自己破壊」などの観点から、もっぱらそこに描かれた日本の家族論について議論していて、聊か肩透かしな内容だったのだが、それでも小倉は「論から溢れ出るものが『抱擁家族』にある」と発言し、それを受けて上野も

「私は江藤を通じてしか知らなかった原著を今回、はじめて読んだんです。ああ、江藤のこの枠に入りきらないものがこのなかにあるな、というのがよくわかりました。つまり江藤が論じた以上に、もっと気持ちの悪い豊かさがこの作品の中にはあるということがよくわかりました」

と発言し、 さらにそれに対して富岡が、

「えらい絶賛やね。いまのは非常な絶賛です、小説家にとっては。」

と言っている。 他にも引用したい部分はいろいろあるのだがそれは後日にするとして、とりあえず今頭がぐらぐらしているんで、一言だけ言わせてもらえるのなら、 「みちよがいいのよう」 ということだろうか。