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田中英光全集第5巻

今日は田中英光全集第5巻を読んだ。

町にて、切符売り場の民主制、N機関区、少女、途上、風はいつも吹いている、地下室から、流されるもの、嘘、小さな願い、共産党離党の弁

「風はいつも吹いている」と「流されるもの」は以前に読んだことがあったので省略。

「N機関区」と「地下室より」が比較的分量があり、あとは短編。

いずれも、昭和21年(1946年)から翌年にかけて、日本共産党沼津地区の責任者として献身的に党活動を行った時期の体験に基づく小説である。

実質的な活動は半年くらいだったようだが、その中で政治活動につきまとうドロドロした人間模様や組織政党の非人間的な部分を当事者として経験し、「思想は信じるが人間が信じられない」との言葉を残して離党することになる。

彼は戦前にも兄の影響で党活動に従事したことがあるが、苛烈な弾圧の中で転向している。そのことへのコンプレックスから、古参の活動家との軋轢もあったのではないかと思う。

田中は文学者、それも究極の無頼派文学者であり、どだい政治的人間ではなかった。そんな彼が政治というものに短期間ではあれ全力で正直に関わり合ったからこんな小説が書けたのだろう。党内からは恥部を暴露するような書き方だと批判もされたようで、これらの作品は政治的理由から不当に過小評価されてきたという感が拭えぬ。

名作とは呼べないかもしれないが、党での活動を生き生きと描写しているのでグイグイ読める。体力のある人の文章だなという気がする。

解説いいだ・もも。資料としてN機関区のモデルになった元国鉄労組の委員長や元日共地区委員らによる座談会が収められている。地区委員会に英光と二人で住み込んでいた関谷文雄氏の手記も収録されている。いずれも貴重な資料である。

「少女」という短編がとりわけ印象深い。九・一五ストの応援隊の中にいた一少女の描写を通して臨場感あふれる現場の空気を伝え、次の言葉で結ばれている。

世界をたえず明るいほうに押し流してゆくものは、こうした青年少女たちの清新な生命力のようにも思われ、その優しく美しい少女の寝顔に、享吉はいまの共産党に欠くことのできない一つの象徴のようなものさえ感じた。

だが、この作品と同時期に発表された「途上」では、共産党員の女性が同僚から性行為を強要されそうになるというスキャンダルの顛末が描かれ、それを隠蔽しようとする動きなども生々しく告発している。

田中英光の真っすぐで偽善を許さぬ博愛的な性質と、彼自身の中にある享楽的・破滅的なものへと引き寄せられる傾向が彼を引き裂き始める予兆のようなものがどの作品にもあって、離党して作家一本での生活になると、後者の傾向が彼を圧倒するのだが、これらの作品は前者の傾向が強く出た作品であるといえよう。

流されるもの

頭の髪に火を燃やし、瞳をつぶって駆け回れば、世界はみどりにみえるだろう。

流れのままに身を任せ、両眼をあけていれば、世界は真っ暗。

緑の世界が狂乱なら、暗黒世界には誰もいない。狂乱と虚無の間に身を投じ、生きられるだけ、生きてみよう。

そうして私が死んだ時、もし神様がいたならば、私は平気でいってやる。神様。私は抵抗も致しませんでした。流れのままに、流されて。

私はいま、約一年あまりの、自分の党活動を振り返ってみて、日本の党運動の末端での具体的現れと、党員個人の人間に関して、ひどい失望を感じている。それで、その失望をありのままに、(もちろん、フィクションとして)小説に書いてゆきたいと思い、げんに、書きつつある。けれども、といって、私は天皇主義者になったり、社会民主主義者や、無政府主義、いかなる他の主義者になるつもりもない。私は、それらの主義には、なおいっそう、深い失望と憎悪を感じているのだ。私はいま、作家として、実にヒトリポッチということを、実感している。私は作家として、(人間は、どうせ死ぬのだ)という問題を、自分の創作で、解決したい。私は、マルクスのいう、社会的人間と、キルケゴールのいう、死に至るまでの病を、自分流に自分の創作の中で、いっしょにさせたい。イヤ、いっしょにしなければたまらぬ気持なのだ。・・・

私は、清教徒じみた、一種、意地悪で、頑固者の多い党内にいて、みじめな孤独を感じ、どうせ死ぬのだ、生きているうちに、幸福をつかみたい。幸福とは、案外、肉体の満足感の中にだけあるのかもしれぬと思い、酒と女の世界に入り込んでみたが、正直に言うと、私はここで、前よりもいっそう、愚劣な孤独を感じ、この世界から、どう逃げ出したらよいかと、のたうち回っている。けれども、私に、とって、他人から、どんなに軽蔑され、無視されようとも、私の文学だけが、現在の私の唯一の救いとなっているのである。

(「共産党離党の弁」)