INSTANT KARMA

We All Shine On

Plumhill Memory

今朝起きるときにあの病院のことを不意に思い出した。

今から四半世紀ほど昔に、2年間いた職場である。

そこは、区内唯一の小児専門の公立精神病院であった。最寄駅から徒歩3分、近くに緑豊かな広い公園があり、その中を歩くのは爽快であった。よく公園のベンチに座って一人で昼食を取ったものだ。

2階にある事務室は係ごとにシマが分かれていて、庶務係と経理係が同じ並びにあり、用度係が職員らが物品購入を頼みに来るカウンターの近くにあった。1階には医事係があり、そこには委託の医療事務員が入っていた。若い女性二人で、二人とも大柄で、一人は化粧が濃く、目立つ顔立ちをしていた。

1年目は、庶務係には、馬谷係長、主任の岡田さん、僕、そして小柳さんと右田さんという若い女性がいた。それから七十近い嘱託員の男性、お使いに行ったりする用務の本間さんという男性、用務員で運転手も兼ねる北さんという男性がいた。北さんは、怪我の後遺症なのか、首が右に傾いていて、肩にくっつけるような恰好になっていた。大柄で、気のいい人で、掘り出し物で買った立派なスーツを着ていた。酒乱の気がある本間さんには悩まされていたようだ。本間さんは、もう嘱託の年齢だったが、真っ黒な髪の毛をポマードで撫で付け、ぶっきらぼうな口を利き、昼間から酒の匂いをさせていることがあった。小柄だったが、ちょっと何をするか分からない怖さがあった。彼は馬谷係長には一目置いていて、馬谷係長はこういう癖のある職員たちをよく統率していた。

事務室に隣接する事務職員の更衣室で、この面々で仕事終わりに酒盛りすることが時々あって、岡田さんは良く付き合っていたが、僕はそういうものからは徹底して逃げていた。意図的に付き合いにくい人間だと思われるようにしていた。

小柳さんは、他の職員から「雪ちゃん」と呼ばれ、愛嬌のある女の子だった。一人暮らしで、両親は屋久島に住んでいると聞いたことがある。経理係で、事務室では一番長く、お局様と呼ぶにはまだ若かったが、馬谷係長からも一目置かれていた鷺さんという女性は、ちょっとレズビアンの匂いがする人で、雪ちゃんを他の職員に触れさせないよう囲い込もうとして、委託の女性たちも含めた女同士のグループを固めていた。右田さんは、まだ若かったが、少し他の女性たちとは毛色が違った。僕が来る前にメンタルで病気休職していたらしい。来た日に、仕事を教えてもらっているといきなり「私なんてどうせ何もできないんです」としょげた様子を見せたのに驚いた。

用度係にいた岸田さんという人は元バスの運転手だったという変わり種で、髭を生やし、スナックのバーテンダーが似合いそうな容貌で、陽気で気さくな人だった。岡田さんとよく冗談を言い合っていた。

もう時効なので言うが、僕は仕事など二の次で、勤務時間にひたすら仕事とは無関係なことをしていた。具体的には、当時僕が読んでいた英語の本の翻訳をしていた。僕がずっと翻訳していることは周囲の人は皆気付いていたらしく、岸田さんからは「謎のワープロ」と呼ばれていたし、右田さんから二人きりのときに「みんなが見ているから止めて」と指摘されたこともある。事務次長からやんわり注意されたこともあった。しかし、僕は確信犯だったので、それでもまったく止めなかった。昼休みには、公園か更衣室で洋書を読みふけっていた。勤務時間には、それらの洋書を職場でコピーした紙を見ながらひたすら翻訳していた。今考えても、なぜあんなことが黙認されていたのか不思議である。今だったら間違いなく懲戒免職ものであろう。

こんな僕が周囲の職員から妙な目で見られていたのは当然だが、表面的には皆普通に接してくれていたのが有難かった。岡田さんは、お気楽さ意図的に演じているところがある人で、いつも飄々と冗談を飛ばし、小柳さんや右田さんを揶揄って遊んでいた。当時の現場にはそういうタイプの人がけっこういて、その緩さがピリピリした本部の空気に辟易していた僕にはとても心地よかった。馬谷係長もそんな岡田さんを放任していた。僕はそんな岡田さんの陰に隠れて黙々と翻訳に勤しんでいた。馬谷係長は僕の勤務不良ぶりも知っていたに違いないが、言っても無駄だと思ったのか、敢えて放置していた。

経理係長の岩上氏は、噂では東大卒で、仕事熱心なタイプに見えたが、どうも無能らしいという認識が徐々に事務室の中に広がっていった。経理係を実質的に仕切っていたのは鷺さんで、岩上係長は鷺さんの言うことに従うしかない様子だった。事務次長と馬谷係長は完全に彼を馬鹿に仕切っていた。何の機会だったか、彼が僕に、「仕事の悩みなんて、家庭の悩みに比べたらなんでもないよ」と愚痴めいたことを言ってきたのを覚えている。具体的にどんな悩みかまでは聞かなかった。その後まもなく、職場で段差のある場所から飛び降りた際に足の骨を折ってしばらく入院した。それも、いかにも鈍くさい印象を与える出来事で、職場では失笑気味に受け止められていた。しかし彼は決して悪い人ではなく、ただ仕事の要領が悪く、ドンくさいだけの、愛すべき人だった。

庶務係での僕の仕事は、非常勤職員の雇用、看護寮の管理、院内報の発行、消防訓練、その他の雑務だった。岡田さんが人事担当、小柳さんが給与担当、右田さんがその他のよく分からない担当で、人員に比して仕事量は多くは無かった。よって残業もほとんどなかった。馬谷係長は院内会議の資料作りなどのためによく遅くまで残っていたし、藤岡事務次長は、一体何をしていたのか不明だが、いつも深夜まで働いていた。藤岡次長はエリートコースに乗っている人だった。事務局のトップである事務長は別室に居て、事務室には時々顔を見せるくらいだったから、実質的には次長が事務局を掌握していて、馬谷係長がその片腕、否ほとんど両腕といった役回りであった。

数少ない仕事の中で、年に一度の消防訓練が僕の一番の働き所だったのだが、僕はここでも手を抜いて、各病棟に事前の根回しを怠り、馬谷係長から軽く叱責を受けたことがある。彼は仕事に厳しく威圧感のある人だったが、怒られた記憶はこの一度きりである。看護寮にいくつか空室ができたとき、新たな入寮者の割り振りを婦長に相談せず、僕が勝手に決めてしまったことが組合から問題にされたこともあった。馬谷係長はそのときにもうまくフォローしてくれた。もっとも彼も僕の消極的な仕事ぶりには不満を募らせていたに違いなく、何かの折や態度の端々にそれを覗かせることもしばしばあった。

月に一度病院の敷地内にあった看護寮の各部屋の電気メーターを記録して電気料金を請求するという仕事があった。男子禁制の女子寮なので、男が立ち入る機会はそのときが唯一であった。消防点検の際に部屋の中に立ち入るときもあった。だがドキドキするような場面は何もなかった。女子寮の建物は古く、部屋も薄暗く貧乏じみて、風呂もみすぼらしく、若い女性がこんな風呂に入っているかと思うと可哀そうになるくらいだったが、とにかく部屋代がほとんどタダみたいなことから、入りたがる職員は多かったようだ。四十代のベテラン看護婦も住んでいて、部屋代で浮かしたお金をしこたま貯めていたとの噂であった。いつか寮の看護婦が妊娠したということがあり、馬谷係長が「(寮は男子禁制なのに)男を連れ込みやがって」と吐き捨てるように言ったのを覚えている。男子寮は離れた病棟の中にあった。そこの廊下のゴミ捨て場に大量のエロ雑誌が捨ててあるのを発見し、それを鞄一杯に詰めて僕の住んでいた独身寮に持ち帰ったことがあった。一度そこの若い男の看護師と偶然帰りの電車で一緒になり、事務室の人たちとも親しくなりたいから今度一緒に飲みましょう、という話をされたのだが、結局何もなかった。僕の方では内心迷惑でしかなかったので、その後何も話がなかったのにはほっとしていた。

看護科長は太った押しの強い人で、副科長は痩せた眼鏡をかけたおばさんだった。たいてい事務室に厄介ごとをねじ込んでくるのは看護科長で、馬谷係長が対応して、まあまあ何とかしましょうという所に落ち着くのだった。看護師の中には若く綺麗な子もいた。僕はとうとう彼女たちと直接話す機会を持てなかった。僕と同期で一緒に異動してきた橋本君はリハビリ科でバスをチャーターした日帰り旅行に看護職員たちと同行したことがあって、若い看護師たちと仲良くなっていたようだ。橋本君は仕事も優秀だったが、性格が陽気で、女の子たちの扱いにも手馴れていた。既婚者だったがモテまくりだっただろう。病院対抗の野球大会でも大活躍したようだ(僕には声もかからず参加もしなかった)。彼は次長や馬谷係長に付き合っていつも夜遅くまで残業していた。僕は決して残業はせず、毎日五時十五分の定時きっかりに職場を出た。これは岡田さんはじめ庶務係は皆そうだったので、僕も気兼ねせずに帰ることができた。

前の職場だった本部では、皆が遅くまで残業する中で一人だけ、しかも新人の僕がさっさと帰るのには、確信犯だった僕にもさすがに心理的抵抗があった。「お先に失礼します」と言っても「お疲れ様」と返してくれる人は誰もいなかった。それでも平気な顔を装って帰っていた。そんなふざけた新人は僕だけだったろう。

病院の事務室はローテーションで土曜勤務(午前のみ)があり、そのときは事務室に一人きりで、やけにのびのびした気分だったのを覚えている。そういうときに集中して洋書のコピーを取ったり翻訳をしたりしていた。

病棟の中に入ったことは数えるほどしかなかった。閉鎖病棟もあったが、閉ざされた壁の背後を見ることはできなかった。事務室は窓が大きく、次長席の後ろには大きな桜の木が見え、季節には見事な花を咲かせた。月に一度、給料日には庶務のみんなが別室に入って現金支給の人の現金をより分け、袋に詰め、給料を取りに来た職員に袋を渡して受領印をもらうという仕事があったのを覚えている。その後給料は全額振込が義務付けられるようになり、このような作業は不要となった。その前に現金を銀行に取りに行く仕事もあった。これは男の僕が北さんの運転する車に乗って銀行に行き、予め伝えておいた金種の入った袋を窓口で受け取るのである。たまに本間さんが一緒に行く時もあったような気もするがほとんど覚えていない。昼間から赤い顔をしている本間さんや、高橋信次の信者という噂で、酒の飲み過ぎで肝硬変か何かで亡くなった営繕担当の作業員のおじさん(名前は忘れた)のようないいかげんな人たちがいてくれたおかげで、僕の勤務不良ぶりが相対的に覆い隠されていたのだと思うと、彼らにも感謝しなければならない。

職場の飲み会は徹底して断っていた僕だが、事務室の若手のカラオケに確か一度参加したことがある。橋本君はミスチルの曲を歌いまくり、当時僕はミスチルはじめ売れている曲をまったく知らなかったので、思わず「いい曲だな〜」と言ったのを覚えている。僕は小沢健二を歌った。医事係の委託の若い女の子のうちの片方(化粧の濃くない方)から「休みの日とか何してるんですか?」と興味津々で話しかけられたりしたが、当時の僕は余りにもほかのことに没頭していて、それ以外の人間関係を作ろうという気がまったくなかったから、何の進展もなかった。

2年目は、鷺さんが本部に異動し、小柳さんも異動し、経理係長が変わって、橋本君が用度係から経理係に移ってきて、だいぶ事務室の雰囲気が変わった。新しく経理係に来た久保さんというベテラン職員は、仕事はできない癖に態度だけは偉そうな人で、彼の尻ぬぐいをさせられる羽目になった橋本君とはたちまち険悪な関係になった。僕は、相変わらず我関せずの態度を貫いていた。

病院の印象は1年目がよかったので、2年目はほとんど記憶にない。2年目の終わりに馬谷係長も僕も橋本君も次長も異動になって、馬谷係長が遠くの病院に「飛ばされた」と言って暴れていたのを右田さんが必死になって落ち着かせようとしていた(が完全に逆効果だった)のを覚えている。馬谷係長は病院現場の中でも強い発言力を持つ人で本部にもしばしば強硬な姿勢を取ることもあったから、確かに嫌がらせ人事という気もしないでもなかった。

その後病院は統廃合され、その敷地には別の医療施設が立った。何年か前に橋本君から来た年賀状によると、藤岡次長も馬谷係長も病気で亡くなったそうだ。在任中の激務が祟ったのであろうか。

あの病院の印象は、丁度今のような初夏の季節に、明るい陽射しの中で歩いた公園の眩しい緑の光景と重なっている。あのとき一緒に働いた人たちはどうしているのだろう。僕は働いていたというよりは、ただの無駄飯食いの税金泥棒でしかなかったから、四半世紀経った今でも当時を思い出すと後ろめたい思いに襲われてしまうのだが…。