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魂のこと

『続明暗』を評して、作者が親しんできた日本近代文学、中でも菊池寛の『真珠夫人』のような通俗小説になってしまっている、という小論を読んだ(渡邊澄子『男漱石を女が読む』)。いくつかの具体的な個所について、漱石なら決してそんな書き方はしないという、その指摘には頷ける部分も大いにあった。しかし『続明暗』の著者(水村美苗)は、自分が漱石の『明暗』を漱石に成り代わって完成させたなどと主張しているわけではないのだから、批判としては的を外していると言わざるを得ない。

図書館で水村美苗私小説from left to right』を借りて読んでみたが、いまひとつピンと来ず。十二歳の時にアメリカに一家で移住し、ちょうど二十年経った十二月の一夜、姉の奈苗と長電話しながら、そこに過去のさまざまな回想が絡まる。アメリカで日本人が生きるとはどういうことか。日本というイメージへの憧れと小説を書きたいという思い。テーマとしては切実で、小説の素材となるだけの深さもあると感じるが、こちらの気持ちの持ち方が、どうもそれをまっすぐに受け止める方へ行かない。テーマへの共感度合いが小説の面白さを決める一要素だとすれば、その点では初めから読者失格なのかもしれない。文体は日本語としてもちろん流暢で読み易く、そこに英語が混じるのも新鮮とはいえる。英語の混じり方も不自然な印象は与えない。著者の頭の中の忠実な再現といってもよいのだろう。

私小説』というタイトルに惹かれるものがあったのだが、期待していたようなものとは違った。私小説と銘打ってはいても、純文学と通俗小説の違いというのはやはりあって、その区別はどこにあるのかと言われると言葉に詰まるのだが、たとえば先日読んでみた赤松利市『ボダ子』は私小説であるという人もいるのだが通俗小説にしか思えず(この作家の『藻屑蟹』という小説は面白かった)、この水村美苗の小説も、自分の評価基準からすると、通俗小説に限りなく近いところにあるような気がする。たとえば津島佑子の『光の領分』や『寵児』は、フィクショナルな体裁はあっても、私小説としてすぐれていると思う。

自分のことを書けば私小説になるのかというとそうではない。フィクショナルではあっても、その主人公に自分の深い部分にあるものが投影されていれば純文学だし私小説といえるのではないか。

大岡昇平は作家になろうと思うと小林秀雄に話したとき、「描写なんかせずに、魂のことを書け」と言われたという。そのエピソードが好きだ。