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神戸の祖父

母方の祖父は、僕が物心つく頃には、神戸で不動産屋(周旋屋というイメージに近い)をやっていた。そのすぐ近くの集合長屋の並びの一つみたいな家に住んでいて、年に数回母親と訪ねることがあったのだが、正確な場所は覚えていない。最寄駅は摂津本山だった気がする。

家は子供心にも狭い印象で、一階に四畳半に満たない部屋が縦に三つほど並んでいて、奥に小さな台所があり、その奥に風呂とトイレがあった。鰻の寝床のように細長い家であった。狭い階段を上がった二階は祖父の寝室だった。祖父は妻(母の母)を早くに亡くして、晩年一緒に暮していた女性(僕は神戸のおばあちゃんと呼んでいた)は再婚したのか内縁関係だったのかはっきりしない。父が長男だった家とは違って、母が末娘だった神戸の家は親戚関係もよく分らず謎が多かった。

最後に訪ねたのは中学の頃か高校に行ってからか忘れたが、祖父の葬式に行く電車の中でプリンスの『サイン・オブ・ザ・タイムス』をウォークマンで聴いていた記憶があるから高校二年の時だろう。亡くなる前の数年は病院で入院していて、祖父はあの家にはいなかったと思う。

あの家の住所は分らないが、1995年1月の神戸震災でかなりの被害が出て、街並みも変ってしまったことと思う。東灘区の火災被害は全焼327件半焼22件、建物倒壊被害は全壊13,687件半壊5,538件という記録がある。祖父の家は確実に建て替わっていると思うが、鰻の寝床のような敷地はどうなっているのだろうか。

神戸の家の周辺についてはほとんど記憶がない。少し広い道路を渡ったところに商店街があって大抵の食料品はそこで調達できたということ位だ(今ネットで調べたら甲南本通商店街のようである。アーケードには記憶があった)。子供心に便利な街だなと思った記憶があるのと、灘中が近くにあったので「お前も頭がよかったらここに通えるんやで」というようなことを言われたような気がする。

祖父から見れば、孫の中でも一番幼い僕は、小柄で線が細く、頼りなげな子供だっただろう。そんな祖父の気持は子供心に何となく感じていた。「お前の太股は細すぎる」と言われたのを覚えている。

祖父は若い頃は恰幅がよく女遊びもしたような印象があるが、晩年には宗教(大本教)に入って、「商売をやっていた仲間の連中は女の尻ばっかり追いかけていた。お前もそのうち女の尻に興味を持つようになる」というような話をしてきたのがたぶん最後に訪ねたあたりの中学生頃で、僕が露骨に嫌な顔をすると、「本当の話なんだから嫌な話をせずに聞け」と諭すように言われた。大本教の話もされた(もちろん当時は大本教のことなどまったく知らなかった)。親からあまり厳しいことを言われたことのなかった僕に、祖父は厳しい叱り方をすることのできる数少ない大人だった。もちろんそういう祖父の一面は好きではなかったが、尊重はしていた。戦争後のドサクサの中で、妻を亡くし、大勢の子供たちをひもじい思いをさせず育て上げたのだから、大変な苦労をしたのだと思う。

大阪の家から神戸までは、子供のころは大変な長距離移動に感じたが、今見ると片道二時間くらいで行けるから、日帰りしようと思えばできる距離である。駅からどうやって家まで行ったかも全然覚えていない。歩いた記憶があまりないのは、タクシーを使うことが多かったからだろう。タクシーに乗った記憶もあまりないのだが。神戸の家に泊まったときの記憶もない(泊ったことは何度もあるはずなのだが)。風呂が熱かったので入るのが嫌だったのは覚えている。とにかく神戸のことに関しては記憶が非常に曖昧である。

祖父が病気がちになった頃、僕の父親が祖父を引き取って大阪の家で面倒を見ようとしていた時期があり、その折に祖父が我儘を言う(料理の味付けが濃すぎるとか薄すぎるとかで気に入らないとかいう話だったかもしれない)といって口論になり、父親が癇癪を起して怒鳴った記憶がある。同じ頃だったか、うちの家族三人と祖父の四人で秋の紅葉を観に行き、祖父が「こんな綺麗な景色を見させてもらって、もう思い残すことはない」などと感激したようなことを言っていたのも覚えている。今から思えば父親に媚びたような言葉で、本心かどうか分からない。父親のことを「いい人だが器用貧乏だ」と僕に愚痴ったこともあった。そういう言わずもがなの余計なことを言って人を腹立たしい気持にさせる所は母親に似ている。

祖父の他の子供(母親の兄弟姉妹)とはほとんど顔を合わせる機会はなく、従兄弟にも会った記憶がまるでない。末娘だった母親は、結婚してから最初の子が生まれるまで8年も経っていたので、他の親戚の子供たちとはずいぶん年齢の開きがあったはずだ。母親は子供のころからひたすら甘やかされて育っていた。

祖父は絵を描くのが趣味で、神戸の家の二階には大量にキャンバスがあった。日曜画家にしてはまあまあの腕前で、今も父方の家にいくつかの作品が残っている。