INSTANT KARMA

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Nobody but me

週末は紀伊國屋で買った小谷野敦谷崎潤一郎伝を読み、図書館で借りた晩年の谷崎の秘書伊吹和子『われよりほかに』も読む。小谷野は基本的に辛口批評だが谷崎のことは尊敬しているとはっきり書いているし、ほとんどのエピソードを肯定的に解釈する書きぶりからもそれは明らかだ。谷崎の小説にはほとんど関心がなかったが、彼の生涯の概略を知ることができたのはよかった。

 

その後で読んだ伊吹の回想録は非常に面白かった。著者は京都大学の国文科にいた時に中央公論社に声を掛けられ、谷崎版源氏物語の口述筆記のための筆記者として京都の谷崎の自宅書斎で仕事を始め、夏は熱海の別宅にもついて行く。谷崎のワガママな仕事ぶりや、休みの日にも東京での買い物や用事を言いつけられたりするのに辟易したり、谷崎の人間的な欠点を率直に指摘する一方で、谷崎の秘書が務まるのは自分しかいないとの自負も感じられ、書斎での緊張した仕事の様子、松子夫人や入れ替わり立ち代わり現れる大勢の女中たちの様子など、著者にしか書けない第一級の資料となっている。あとがきには、三島由紀夫が自決する一か月前に、著者に向って、早く書きなさい、早く書かないと間に合わない、と叱咤激励した話なども書かれている。中央公論で編集者として勤め上げただけあって、作品分析も鋭く、従来の伝記や研究の間違いを指摘したり、間近にいた著者だから知る事の出来た事実に基づく仮説など、研究者が読んでも興味深い内容と思われる。

 

伊吹女史が谷崎のもとを訪れたのは二十五歳のときで、谷崎から見れば若い女性として性的興味もあったに違いないが、ひたすら谷崎の右腕に徹しようとする知的で真面目な姿勢は、谷崎にとっては些か物足りなかったようであり、伊吹が最も有能な秘書であることは認めながら、いつも代りになる秘書を探している。住込みの若い女中に代筆をさせようとするが、教養が足りなくてうまくいかない。谷崎はそのへんの苛立ちを(理不尽に)伊吹女史にぶつけたりもする。松子夫人も、伊吹女史の有能さを認め、来てくれるよう懇願するのだが、一方で誰よりも谷崎と親しく共同作業する伊吹女史の姿に嫉妬の念も抱かずにいられない。そうしたアンヴィバレンツが谷崎の家にはいつも充満していて、伊吹女史は天然なのか硬すぎるのかその空気には鈍感であり、出入りしていたもう一人の秘書小瀧(男性)から指摘されてようやく気付く有様である。谷崎の秘密に最も通じていたと思われる担当編集者の小瀧は、ある日電話で谷崎に怒鳴りつけられ、出入禁止となる。その直後に谷崎は体調異変で倒れる。小瀧宛の手紙や小瀧によるメモが公開されていないため、何があったのかの真相は今日まで明らかになっていない。

 

青空文庫からワードにコピペした「鍵」を読んでみたが、変態心理サスペンス純文学? カタカナ日記が読み辛いが、まあまあ筋が凝っていて面白く読める。失敗作との声もあるようだ。フランス語版が出て評価されたとか。何度も映画化されている。猥褻か文学かという記事が週刊誌に出て国会まで呼び出される騒ぎになるのを恐れた谷崎がプロットを変更して本来書きたかった描写が書けなかったという。伊吹和子が筆記したのは一部分に留まるらしい。

 

伊吹和子によると、晩年谷崎は人間の男女が猫に化けて同性愛行為をするという小説を構想していたという。猫や犬はたくさん飼っていたが、えこひいきが激しく、好まなくなると碌に世話もしなかった(世話するのは専ら女中だが)。松子夫人と同居していた妹重子、松子の連れ子の嫁千万子、それから絶えず出入する女中たちと、家庭では女に囲まれていた。女中たちを映画や食事に連れ回し、ネックレスやイヤリングや指輪を買ってやったが、飽きるとさっさと暇を出した。愛嬌の無い伊吹に代わる若い秘書を探していたが見つからなかった。女中に筆記させようとしたが満足にできるはずもなかった。