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松村

松本清張『昭和史発掘』の中に書かれている「スパイMの謀略」を読み返し、その後日談が「『隠り人』日記抄」という作品に書かれていると藤井康栄の本にあったので、昨日図書館で借りて読む。昭和三十三年ころ、北海道のうらぶれた長屋で芸者女と暮す凋落した姿を描いている。藤井の調査に基づいて書かれたそうだ。松村のことは立花隆日本共産党の研究』にも書かれていて、これは文庫が松本の家に今もあって何度か読んだが内容はほとんど忘れてしまった。なぜが大学時代に友人(そいつの頭文字もM)と松村のことをネタにして冗談を言い合っていた記憶が微かにある。名前がお笑い芸人の松村と同じなのが可笑しかったのかもしれない。

ネットを見ると小林俊一/鈴木隆一『スパイM』という本が最も詳しく、「著者二人が調べ上げた晩年の飯塚の生活は松本清張が「『隠り人』日記抄」で描き出したものとは大分異なる」とのことなので、これを図書館で予約した。

小林 峻一,鈴木 隆一「スパイM 謀略の極限を生きた男 (文春文庫)」を図書館で借りて読む。これを読んだ後は他のものを読む気になれず、昨夜は寝る前に頭がどんよりと重くなった。松本清張「隠り人日記抄」に描かれた晩年はここで明らかにされたイメージから離れていないように感じた。

 

スパイMこと松村昇こと本名飯塚盈延については松本清張「昭和史発掘」と立花隆日本共産党の研究」の中で取り上げられている、戦前共産党における最大のスパイである。

没落士族の家で赤貧の少年時代を過ごし、上京して青年期に共産党関係組織に入り、武闘派として積極的に活動する。渡辺政之輔の手引きでモスクワのクートベ留学生として約三年を過ごすが、これがスターリンが権力闘争により党を掌握した時期に当たり、現地で共産党に幻滅したらしい。後日自分の娘に、「共産主義はいいが、人がよくない。やり方がよくない。こんなものが存在していると世の中はよくならない」と語ったという。

日本に戻ってすぐ田中清玄の家を訪ねたときに検挙され、そこで特高課長毛利に口説かれてスパイになる。「非常時共産党」(その実態は毛利とタッグを組んだ官製共産党)を作り上げ、党の活動を取り仕切り、党員に銀行強盗をさせるなどの謀略によりそれを壊滅させた詳細は前掲書に描かれている。

スパイとしての活動を終えた後もしばらくは東京で暮していた。その後兄の家族と一緒に北海道から満州に渡り、終戦満州で迎えた。スパイ後に二度結婚しそれぞれ子を設けたが自らの戸籍は隠し通し、変名で住所登録し、子供にも戸籍を明らかにしないまま北海道の闇市がそのまま商店街になった長屋の借家で昭和四十年に死んだ。晩年は「空間論(精神と物質)」という論文を書いて大手出版社に送ったが相手にされなかった。

生涯に愛した女性は八人、と娘に語った。北海道で十八歳の芸者を見初め、満州から帰国して昭和三十五年に先立たれるまで共に過ごした。「自分は過去を知られたら生きて行けない人間だ」と話していた。戦後、共産党の雑誌に本名を載せた記事が出たときには「よく調べたなあ」と感心していた。死んだときには戸籍がないから火葬許可証が出せないと言われた。

カメラに凝っていたそうで、小林鈴木の本には、昭和十年(スパイ引退は昭和七年十月)に自ら撮影した全身座像が載っている。怜悧な知性の持ち主というより、町工場の親父といった風情である(実際に後に北海道で工場を経営した)。だがその眼は内面的なものを感じさせる。