INSTANT KARMA

We All Shine On

Of Beauty

文學界』の最新号に西村賢太の創作が載っているのを読んだ。連載小説以外の読み切り中編は久しぶり。ここ数年の生活状況を交えつつ、ライフワークである藤澤清造全集発刊への決意を改めて表明。コロナ禍における苦労話や腰痛話、芥川賞後に七年間連れ添っていた女性がいたこともカミングアウト。愛読者だったのが半同棲するようになり、2019年に向うから愛想尽かされて切られたというから、この女性のことは今後作品のネタになるのだろう。小谷野敦の『東十条の女』にも書いてあるが、世間には本を出していて少しは名の知られた男に関心や欲情を抱く女というのが一定数いるらしい。ちなみにこの小谷野の小説には「男女が旅行をするとたいてい喧嘩するもので、成田離婚もそのためなのだが、それなら結婚前に一度旅行しておいたらいい」とか「ネットお見合いで会う人、ないしロクシィ(註:ミクシィのことだろう)で知り合って会う女は、精神を病んでいることが多かった」などの役に立つ名言が散りばめられている。

ミスティーンジャパングランプリの石川花(はんな)というのがマンガやアニメに出てくる美少女キャラそのもので驚愕する。ロシア人とのハーフで身長163センチ、十頭身くらいあるのではないかというような顔の小ささなど、まさに「顔面の天才」。TWICEやらチェリバレのジウォンやらヨチン解散後再デビューの決まったVIVIZのウナやらGidleのミヨンやらの〈顔面国宝〉たちに見慣れた眼にも新鮮に映る。しかも14歳とは……。

だがこうした事態に直面すると、極度の面食いで美人好きの自分も、もういい加減行き過ぎたルッキズムには反対せざるを得ない。女は(もちろん男も)顔ではない(リンカーンは「男は四十過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言ったが、そういう意味の顔ではない)。

美人で男にもてる女というのは「人生勝ち組」などと言われるが、3−7くらいの割合で不幸な人の方が多いという説を支持している。これは決して負け惜しみではなく、顔が綺麗すぎる女とは付き合いたいと思わない。そういうのはデコレーションとして飾っておく価値しかない。自分も結婚は顔で決めたのではない。外面的な美は人間の価値にとって殆ど意味をもたない。

フランシス・ベーコンはそれについてこう言っていなかったか。

美徳は宝石のようなもので、簡素な台の上に据えるのが一番いい。そして確かに美徳は美しい身体に宿るのが最良である。美しいというのは姿形が繊細であるというのではない。見た目の美しさよりも、全体として堂々とした存在感がある方がいい。見目麗しい人が大きな美徳を持っているということはめったにない。それはあたかも、自然は卓越性を生み出すよりも間違いを犯さないことに忙しいためであるかのようだ。だから彼ら(見目麗しい人々)は洗練されてはいるが偉大な精神は持たず、研究するのは美徳よりも態度である。しかしそれは必ず当てはまるわけではない。アウグストゥスカエサルティトゥスウェスパシアヌス、フランスのフィリップ美貌王、イングランドエドワード四世、アテネのアルキビアデス、ペルシャのソフィーのイシュマエルは皆高貴で偉大な精神の持ち主であり、同時に当時の最も美しい人間であった。顔立ちの美しさは、皮膚の色の美しさにまさる。そして顔立ちの美しさよりも、端正で優雅な動作の美しさがまさる。それは美の最高の部分であり、絵画では表現できない。実物を一目見ただけでも分らない。美は乱調にあり。アペレスとアルブレヒト・デューラーのどちらが優れていたと言えるだろうか。一方は幾何学的な比率で人物を描いた。もう一方は、さまざまな顔の最良の部分を取り入れて優れた顔を描いた。だがそのような人物は、それを描いた画家以外の誰も喜ばせないだろう。私は画家がこの世ならぬ美貌を描いてはならないと考えているわけではないが、画家が優れた顔を描くためには、規則によるのではなく、ある種の幸運(ミュージシャンが優れた曲を作るときのような)によって創造するべきである。美しい顔でも部分部分はそれほどでもない。だが全体としてみれば美しい。美の主要部分が端正な動作の中にあるとすれば、年を重ねた人の方がはるかに愛すべきものであることはもっともである。ラテン語の諺に「美しい人の秋は美しい」とあるとおりだ。若者が美しくあるのは、若さが美しさの一部であると考えることによって初めてそう感じられるのである。美しさは夏の果物のようなもので、腐りやすく、長持ちしない。そしてほとんどの場合、美は放埓な若者を生み、老年の面目を失わせる。だが確かに、所を得た美は美徳を輝かせ、悪徳を赤面させる。