INSTANT KARMA

We All Shine On

Dear Jim

「国民は浮かれ騒ぐべきだ……全ての労働、全てのビジネス、全ての権威が停止する、完全に自由な一週間。それが始まりになるだろう」

ジェームス・ダグラス・モリソン(1943-1971)

『ドアーズ 結成50年/最も過激な伝説』(KAWADE夢ムック 文藝別冊)の野澤収インタビューを読んで、ジム・モリソン生存説というのがあったことを初めて知った。

生存説が生まれる理由の一つとなったのが、ジム・モリソンの遺体を確認した人がほんの数人しかいないということで、アメリカで訃報を聞いてパリに飛んで行ったマネージャーもなぜか封印された棺を開けなかったという。

生前ジムは、「俺が死んだことにして、アフリカに逃げて雲隠れする」と周囲に語っていたとか。

アメリカで1970年代半ばに著者ジム・モリソンと明記された謎の本が出版されたり、80年代初頭には、その時点でのジム・モリソンのインタビューがイタリアで出版されたりもしているようだ。

そして、バンド仲間のレイ・マンザレクが、「自分が死んだようにみせかけてどこかに雲隠れするようなまねは、あいつならやりかねない」と語り、生存説に立脚した『The Poet In Exileという小説を書いたりもしている。

この小説は、主人公のロイが、昔バンドを組んでいた〈J〉から手紙を受け取って、「やっぱりあいつは生きていた」というところから始まるのだという。

こうしていろいろと事実らしきものを積み重ねていくことで、存在しないものがさも実在するように思えてくるというところからすべての陰謀論は始まる。

だが有害な陰謀論とは違って、こういう俗説にはある種の愉しみがある。

フランスの詩人ランボーは若い頃に世界文学に残る強烈な詩を書き、後半生はただの商売人として生きた。ジム・モリソンも若い頃に文学的な歌詞とロックのステージ・パフォーマンスで一世を風靡した後、その死と共に伝説となったが、実は世界のどこかでひっそりと暮らして誰にも知られぬまま生涯を終えた、と想像するだけで面白い。

ジム・モリソンの父親はアメリカ海軍の高官で、朝鮮戦争ベトナム戦争で指揮を取った。ジムはこの父親の下で厳格に育てられたという。

1964年、ドアーズとしてデビューする二年前に父親とジムが一緒に写った写真がある。

航空母艦のブリッジで並んでいる父と子。父親は、自分の母艦の中で自身に満ちた精悍な表情を見せ、満足げなのに対し、息子は、もっさりしたセーターを身につけ、自信がなさそうに肘を曲げ、小太りな顔で物憂げに窓の外を眺めている。この内向的な少年が二年後に世界を震撼させるカリスマロックスターになるところなど想像できない。

ジムは十代の頃は本の虫のような読書家で、ランボーやブレイクなどの詩人、ビートニクの小説家などに憧れ、図書館の蔵書でしか読めない中世の悪魔学の本まで読んでいたという。音楽はロックよりもフランク・シナトラの歌を好んだ。

UCLAでは同級生のコッポラと並んで映画製作の授業を受け、裏方の制作者になることを望んでいたが、プロのキーボード奏者として演奏活動をしていたレイ・マンザレクと知り合って、音楽活動に目覚めることになる。最初は金もなかったので、マンザレクの妻ドロシー・フジカワがバイトで稼ぎ、物心両面でバンドを支援した。

マンザレクはその頃についてこんな回想を残している。

エクササイズを兼ねてビーチを歩いているときだった。夏真っ盛りのカリフォルニアの朝。光に溢れていて、これからの運命について私たちが抱いたプランにとても興奮していた。若さと喜びと可能性に満ちていた。

 

「君はどれくらい生きると思う? レイ」

 

彼は夢想に浸っていた私をそこから引きずり出した。「何だって?」と私は衝撃を受けてそう言うことしかできなかった。

 

「だからさ、いったい何歳になっているんだろうって…君が…そう、死ぬとき」

 

私たちはまだまだひよっこで、未来は無限で、将来には豊かな時間があって、ドアーズの着想がまさに形になろうとするときだった……そんなときに、彼は自分の死を意識していたのだ。

 

私は言葉に詰まりながら答えた。「そうだな…たぶん87歳」

 

「そこまで…俺はダメだな、そんな遠くまで行けない」

 

そして一切感情を見せずに、恐怖を感じさせない様子でこう言った。

 

「俺は自分が流れ星みたいなものだって自覚している。夜、大勢の人たちと外に出て、ビーチにいるとしよう。誰かが空を指さして、『見て、流れ星!』って言うんだ。みんなは話すのを止めて、星を見上げる。そして『ああ!』と叫ぶ。星は人々の心を一瞬だけ捉えて、そして消え去るんだ」

 

そして彼は、深い、人を信用しきった眼で私を見た。未来を予知するかのような眼だった。

 

「俺は自分をこんな風に理解しているんだよ、レイ」

 

Ray Manzarek "Light My Fire: My Life with the Doors"(1999)より

ドアーズのファースト・アルバムとセカンド・アルバムを聴けば、こういう音楽を演ってしまった人間は、決して長生きできないだろう、と納得する。

ジム・モリソンにもそれは分っていたはずだ。

レイ・マンザレクは2013年、74歳まで生きた。

ジムの父親、ジョージ・スティーヴン・モリソンは、2008年に89歳で亡くなった。

「何も革命の話をしているわけじゃない。デモの話もしていない。路上に出ろと言ってるんじゃない。楽しいことをやろうと言ってるんだ。踊ろうと言ってるんだ。痛くなるまで隣人を愛せよと言ってるんだ。友人を掴んで来いと言ってるんだ。愛について話してるんだ」