War Is Over

 if you want it

復活

キリストは反逆児であり、ユダも反逆児である。キリストは、まずローマの政治的圧政に強く反逆し、同時にそれを敵とする律法的民族主義にも反逆した。ユダはこの二つの点でキリストの同志であり、しかも彼の教義の〈忠実な〉使徒であるが、この〈教義〉を裏切らず、〈人間〉を裏切ったところの反逆児である。

 

この三重の反逆にユダの性格と立場があるのだが、肝要なことは、ユダが俗説の如く変節漢だの謀反人ではないことである。彼はあくまでキリストの教えに忠実であった。ただ彼はそれを合理的に信じた。彼が合理主義者であるとことに、私が彼を左翼だといういわれがあるのだ。

 

ユダの合理主義は、知性による功利主義ともいえよう。秩序と建設と前進による勝利。この近代知性がいつもモットーとする実践が、ユダの本領である。それがこの曳かれ者の茶番めいた行進とは!

 

ユダは勿論イエスの説く「愛」の精神を理解している。しかしその理解が常に「知」の形式によっているのだ。ここにイエスとの重大な別れ道がある。イエスが「愛」で描く天国の理想を「知」で設計し実現しようとするユダ。これは正しく近代人の理想主義そのものである。

 

河上徹太郎『ユダと現代風景』より

ユダは、イエスが招かれた家で、遊女が高価な香油をイエスの頭に注いだのを見て憤った。

「この香油を売ればたくさんの貧者に施しができるのに、何という無駄なことを!」と。

ユダは、イエスエルサレム入場を、武装し熱狂した民衆の先頭に立って、額には王冠を戴き、彼の全能の前にローマ人を戦慄させるものと信じていた。

それなのに、イエスは、すでに絞首台を約束されたも同然に、農民の群に囲まれ、頭を垂れたまま、罠の中に飛び込むお尋ね者として、貧相なロバに跨ってエルサレムに入場したのである。

このとき、ユダはイエスに「裏切られた」と感じたのだ。後のユダの「裏切り」はこのときの報復であった――

 

* * *

 

夢の中で鳥居みゆきが号泣し、エレベーターの中で能年玲奈から頬にキッスされる夢を見たので、一時閉鎖していたブログを復活することにした。

誰に読ませるためというのでもなく、純粋に個人的な備忘録として。

 

あることを信じていて、それが自分にとって最も大切なことで、それ以外のことは極端に言えばすべてどうでもいいと思いながら日々の生活を送っている、という状態が二十代の初めから二十年くらい続いた。

その後、その信じていたことが、素直には信じられなくなって、かといって完全に否定することも出来ず、宙ぶらりんな状態のまま十年くらい経っている。

今思えば、それを信じていることによって、自分はそこらへんの人々とは違うのだ、という優越感を感じていたのかもしれないし、そのことに直接関係しないことへの半身な態度にもつながっていたのだろうと思う。

それは信仰とか宗教に関係することなのだが、自分は特定の新興宗教を信じているのではないと思いこんでいた。しかし今になって考えれば、それは明らかに特定の新興宗教に過ぎないのであった。

最初に内的な体験というか確信めいたものが芽生え、それを合理的に説明し、正当化できるようなものを求めている内に、特定の思想や理論に同一化するようになっていく。思想や理論は、それがどんなに美しく善きもので真実めいて見えても、真実そのものではない。だが真実を自分の外側に求める心がそれを生み出し、それに依存するようにさせる。

 

政治には、言論の自由や思想の自由を保障することは出来る。しかし、犯罪を犯す自由を保障することは出来ない。尤も犯罪にはペナルティを課すという条件付きの自由は認めているとは言えるかもしれない。究極の全体主義国家は、犯罪を犯す前にその自由を剥奪する。そういう時代がいつか来るのであろうか。

宗教は、本来は犯罪を犯す自由さえ正当化するものだ。その反面、人間のあらゆる行為、内面的行為まで束縛する。宗教はあくまで個人的なもの、神との一対一の関係性であって、組織的なものや全体を相手にするものではありえない。

芸術は個人的であると同時に普遍的でありうる。創造的人生はそれ自体が芸術である。人間は誰もが芸術家であるべきだ。それが音楽(聴覚的芸術)であれ、絵画(視覚的芸術)であれ、文学(知的想像的芸術)であれ、料理(味覚的芸術)であれ、その他の何であれ、人間のあらゆる営みは芸術でありうる。

 

二十世紀後半、全面的核戦争の脅威がリアルだった時代には、人類滅亡というビジョンがリアルでありえた。ノストラダムスの予言を怖れることができた。だが、二十一世紀前半、これほど気候変動で世界各地でカタストロフ的な状況が現出しているのに、なぜか人類滅亡というビジョンがリアルに想像できない。大災害は起こるだろう。自分を含めた大多数の人類がその犠牲になるかもしれない。だが一部は生き残るだろうという予感がある。しかしそれは自分にとってはどうでもいいことに過ぎない。

生きる目的とか、生きる意味などを考えすぎるのは危険だ。

それを掴んだと錯覚すると、それが失われたと感じたときに生きる意志を失って死への誘惑に襲われる羽目になる。

〈生きる意味〉は今生きていることの〈外〉にあるのではない。今生きていることの〈中〉にあるのだ。だから生きている限りそれが失われることはあり得ない。

神は自分の外にあるのではない。私の中にあるのだ。私自身が神だ。それ以外に宗教の意味はあり得ない。

そうやってまだ〈意味〉に囚われている。