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ウィトゲンシュタイン入門

ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書という本の中で、著者で哲学者の永井均は、こんな風に書いている。

小学校3,4年のころ、自分でも問いの意味がよく分からないながら、「私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」というようなことをぼんやりと考えていたのを覚えている。

小学校高学年から中学生になるころには、もっと明確に「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」という疑問をしばしば考えた。 無数にいるといわれる生き物の中に、自分という特別のあり方をしている奴が一人だけいて、こいつ(両親によって永井均と名付けられた一人の少年)がそれである、ということが不思議でならなかった。

だがもっと不思議なことは、周りの誰もそんなことを不思議がっているようには見えなかったし、学校の勉強でもそんな問題をとりあげそうもない、ということだった。

そんなことを考えていたある日、私はさらに不思議なことを思いついた。周りの誰もそんなことを不思議がっているようには見えない、と言ったが、その「そんなこと」とはいったい何だろう。私自身と周りのみんなに共通の「そんなこと」など、事の本質上ありえないのではないか。まさにそのことがこの問題の特徴なのではないか。 この思い付きは永井少年を戦慄させた。

中学2年生の彼は、思い切ってこの「僕はなぜ今ここに存在しているのか」という問題を友人に話してみた。その知的で聡明な友人の答えは、「両親がセックスしたから」というものであった。

しかしこれは答えになっていない。これまで無数の男女がセックスをして、無数の子供が生まれてきた。これからも生まれてくるだろう。そのうち一人が私であった。

しかし、私など生まれてこないこともできたはずである。現に私が生まれるまでは私がいない世界が続いていたし、100年後にはまた私のいない世界が存在し続けるであろうから。 しかし、どういうわけか、私は生まれ、今ここにこうして存在している。

そして、それは永井均と名付けられたこの人間が生まれたということとは別のことである。なぜなら、永井均という名のその人間が生まれていながら、それが私ではなく他人(というよりむしろ単なる一人の人間)にすぎない、という状況は十分考えられることだからである。

ウィトゲンシュタインは、この問題についてこのように語った。

「ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、という点である。他人は、『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである。」

一般に「独我論」という言葉の意味は、「自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できない(存在していない)」という記述で表される。

単純に言えば、リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。また、他人の存在、他我も説明できない。

量子力学の有名な「コペンハーゲン解釈」は、一見このような考え方を裏付けているように思われる。 ここでいう「私」は、いわゆる脱人格的自我(哲学用語では超越論的主観という)のことを意味している。この「私」は、世界というものに意味を与え構成する主体であり、デカルトが思索の出発点とした「我思う、ゆえに我あり」の「我」のことだ。

だが、ウィトゲンシュタインは、そのような主体をまったく想定していない。

5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。(『論理哲学論考』)

 この主体(自我)は、デカルト以来の近代的自我やカント以来の超越論的=先験的主体とは根本的に異なるものである。

すなわち、通常は、主体としての自我が、素材としての世界に対して形式(意味)を付与することによって、内的関係がはじめて設定されると考えられている。しかしウィトゲンシュタインにとってはそうではない。

自我は、すでに形式(意味)によって充たされた世界の限界をなすことによって、それにいわば実質を付与するのである。「私」とは、世界に意味を付与する主体ではなく、世界を「この世界」として存在させている、世界の実質そのものなのである。それゆえ、独我論は貫徹されると純粋な実在論に帰着する。

5.64 独我論の自我は延長を持たない一点に収縮し、残るのはそれと対置していた実在だけとなる。(『論理哲学論考』)

すなわち、世界から分離した固定的な「わたし」なるものは存在せず、ただ「世界=わたし」のみが存在する。世界はわたしである。