INSTANT KARMA

We All Shine On

『晩春』

(監督:小津安二郎、脚本:野田高梧小津安二郎、出演:原節子笠智衆月丘夢路他/松竹/1949年)

もはや何もかも語り尽くされた感のある古典的作品だが、個人的備忘録として感想を記す。

原節子が強烈。原演じる紀子の激情をまったく意に介さずスルーし続け、「幸せになるんだよ」と呪文のように繰り返すことで無理矢理嫁がせた後、独り林檎を剝いて俯く五十六歳男やもめを淡々と演じる笠智衆もよい。小津は当初林檎を剝いた後で号泣せよと命じたが笠がそれを拒否しため実現しなかった。実現していれば映画の印象は全く異なった物になっていた筈だし、監督の意図はより明確に伝わったであろう。

この映画が〈親子愛〉、つまり父は娘の幸せを願い娘はそれに感謝を持って応えたという一般的通俗的メッセージを意図したものであるなら、お見合いの様子やら新婚旅行のワンシーンでもあって然るべき。その意図的な欠如からは、この映画は徹頭徹尾二人の、つまり〈男と女〉の関係を描くことにのみ関心があったと考えるべき。

この映画のテーマはズバリ〈禁じられた愛〉としか考えられない。再婚相手の存在を知らされて以降の女の性を丸出しにした原節子の演技は隠された製作者の意図を読み取りそれに応じたものである。京都の旅立ちの朝に「やっぱりこのまま一緒にいたい」と訴える紀子の表情はファザコンエレクトラ・コンプレックスで説明可能な領域を超えており、もはや情夫へのそれに近い。そしてそれに応える(応えない)笠智衆の空疎な大演説を聞いて遂に別れを観念した紀子の何もかも諦めたような表情に〈娘の幸せを真摯に願う父への感謝〉を読み取れというのは無理な話。

有名な京都の旅館の夜の〈壺〉は、隠されたメッセージが原の存在の奥底から溢れ出る官能性によって露わにされるのを中和するためのショットであり、この映画のメッセージを高められた親子愛の枠内に押し留めることをかろうじて可能にしていると同時に、〈壺〉と〈塔〉が同じ画面に収まることでそれらが女性器と男性器の象徴として無意識に刷り込まれることも計算済みのはず。

この映画をホームドラマとか親子の情愛をしんみり描いたペーソス溢れる作品と捉えても無論決して間違いではない。小津監督はそういう見方をされることを望んでいたと思う。だが監督個人にとってこれは真の悲劇を描いた作品であると想像を逞しくすることで萌え狂うことが可能になる映画でもある。