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平野謙と「新生」

杉野要吉『ある批評家の肖像―平野謙の〈戦中・戦後〉』は定価1万6千円(+税)、600頁を超える大著だが、大半が中山和子ほかの平野謙寄りの評論家との細かい論戦に費やされていて、実質的な中身はそれほどない。

乱暴に要旨をまとめると、平野謙は妻帯の身である三十三歳の年齢にいたるまで父親から毎月生活費を送金されていて、国家統制機関「情報局」に就職することでようやく独り立ちできるようになった。情報局への就職に当たっては上司となる井上司朗のもとに押しかけて粘った挙句に定員を増やしてまで採用してもらった(にもかかわらず戦後になって平野は当時の回想の中で井上を無能な男として揶揄の対象とした)。

情報局では戦争推進政策への全面的な協力要請を中身とする総理大臣・情報局総裁の「祝辞」を代筆するなどして「月手当百円」を支給される身分となった。国家による言論弾圧言論統制の当事者となった文学者たちは、当局の呼び出しを受け、いわば「取調室」に官憲として睨みを利かせている平野の姿を生々しく記憶している。

戦時中にこうした経歴を持ちながら平野は、戦後になるや「近代文学」の同人として、伊藤整亀井勝一郎をはじめとする文学者たちの「戦争協力」的な態度を厳しく批判した。

だが、著者(杉野要吉)によれば、平野は表向きは自己批判を避けつつも、内心は忸怩たる後悔の念に苦しめられていた。その表れが、戦後最初に平野が発表した島崎藤村「新生」論であった。

ここで私が注目するのは、平野謙がかくも藤村に牽かれているのが、対社会的に不名誉な「隠れた罪」を胸に秘めた文学者が、しかもなお消えざるおのれの「罪過」の前で、その「罪過」にくるしみながら「執拗な動物力」で「いかにかして生きぬきたい」「生」を追尋する文学者である点だ。そして重要なことは、その藤村の欲求がそのまま、これまで私が平野謙の追跡を通じとらえ出してきた戦時期に幾変遷をへた平野謙自身の日本の敗戦近いころの内心の問題、そしてそれにねざす彼自身の新たな「生」の欲求とそのままかさなってくる点である。

 

重要なことは、平野謙にとってこの長編「新生」論は、傍観者的な視点に立つ客観的な藤村像をえがきあげようと力をふりしぼっているのではないということである。平野謙は祖国の敗戦から戦後へと未曽有の激烈な変動を遂げつつある混乱のなかを、おのれもまた「台地からついに遊離すること」かなわず、過誤による「おぞき苦闘」をくりかえしてきてしまった「瓦全」の人間として、自分の姿をそこに映し出そうとした。わが正体を映し出すのにふさわしい鏡として、これまでの行路の節目、節目でいつもそうであったように、やはり藤村を、そしてここではわけてもおのが内面に直結した主題性を持った作品「新生」を、彼はえらびとったのである。

 

平野謙は文芸批評家として、過去の「汚点」にかかわる「暗い罪過」をそのまま「私小説」的な方法で告白・懺悔するやり方ではなく、「第二の自我」を「仮構」的に形象することによって、背後に消し難い「暗い宿業」を封印し事故の新たな生きる道をとらえ出して行こうとした。またそれが平野謙にありえる唯一の危機脱出の道だったのである。

 

「罪ふかき」宿命の人、平野謙の生涯において、しかし最大の危機は、やはりどの時期よりも敗戦前後であった。その「宿命」のまねいた戦時期の悲痛な過誤をのりこえ、自己救済を獲得する道筋を彼が自己のものとなしえたのは、芸術家藤村がかつて「新生」で苦しみながらなしとげたとおなじように、その藤村の「新生」を、おなじ資質の自己を照らし出す鏡として「仮構」的に〈自己弾劾〉する「第二の自我の創造」としての批評を、生きた芸術作品として創造することによってであった。

つまり平野は、「新生」を書いた島崎藤村を批判しているように見えて、実際にはそこに投影された平野自身を責めさいなんでいるのだと言う。

結局のところ、杉野は平野を批判しているようで居ながら、実際には批評家としての平野を高く評価しているのである。あたかも、平野が藤村を批判しながらも、その文学者としての芸術性に尊敬の念を抱いていたように。

しかし、よく分からないのは、戦時中の自己の戦争協力(というより言論統制を主体的に担っていたこと)をストレートに認めることなく、まったくの第三者である藤村を〈己の鏡として〉批判することが、果たして批評家として、という以前に、人間として正しい態度なのかという点である。

それは人として誠実な態度と言えるのだろうか。なぜ杉野がそれで良しとできるのかが分からない。あまりにアクロバチックな論理と思わざるを得ない。

勝手に平野の〈鏡〉にされた藤村こそいい面の皮というべきであろう。

藤村の「新生」についてはこんな評もあったようだ。

「藤村を道徳的な観点から非難する人もある。しかし、これは問題にならない。人間一生、七十年の生活の間に、藤村程度の過失は、有っても無きが如きものであって、これを誇張するのは、顕微鏡的神経過敏である。むしろ、先生の良心は、余り潔癖すぎて、身辺の者を息苦しくさせたほどであり、一般の水準から言って、稀に見るピューリタンと申していい。」

(『新潮』昭和十八年十月号 舟橋聖一

この言い分をストレートに認める気にはなれないが、平野の「新生」論は余りに藤村を厳しく責め過ぎているという気もしてきた。

当時川端康成は、「作家はこんな風にやられてはたまらぬ」と反発したというがそれも分る。