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西村賢太

西村賢太の小説にハマったのは去年の三月末からだから、まだ一年も経っていない。図書館で「どうで死ぬ身の一踊り」を借りてその面白さに目覚めたのが最初だった。面白い小説を探して芥川賞全集などを読んでいて、どれも退屈でウンザリしていたときに、西村の私小説は衝撃的に面白かった。その内容のみならず、スタイリッシュな美意識溢れる文体にも魅かれた。

彼の全作品を漏れなく読みたくなり、片っ端から図書館で借りた。彼の文庫本はもう大半が絶版になっていて、買ったのは二,三冊なので、西村から見ればファンを名乗る資格はない。

西村の私小説を時系列に並べたメモを作ってみると、彼が小説に書いているのは中学卒業間際に家を出て自活を始めた十六歳頃からの話で、十一歳のときに父親が性犯罪で逮捕された子供時代については書いていない。私小説には両親の来歴から自らの幼い頃の思い出について書くのが常套だが、その時代にはほとんど触れていないのは、よほど思い出したくもないのか、関係者への配慮から書けないのか。あと二十代後半のときの田中英光の遺族とのトラブルについても書いていない。そして芥川賞受賞後に交際のあった女性についても書いていない(最後の小説の中で大まかに言及してはいる)。そう考えると彼は私小説の中で自身の人生の一時期、つまり十代から二十代の〈流浪の時期〉についてしつこく書き続け、他の書かない時期を意図的に排除してきたといえる。

三十代の初めに知り合った〈秋恵〉との一連のエピソードを綴った「秋恵もの」は西村賢太私小説の中核をなすものといえるが、彼女と同棲した一年ほどの月日は「ネタの宝庫」であると同時に、そればかり書いている内にワンパターン化する傾向もあった。それでも彼は私小説作家として書かねばならぬはずの家族のことについて〈秋恵もの〉のような熱心さをもって書こうとはしなかった。彼は明け透けなイメージとは違い、決して裸になって「ひと踊り」したわけではなかった(もちろんそのことが彼の作家としての評価に直結するものではないが)。

西村賢太の作家人生の柱である「藤澤清造もの」は、藤澤清造というほとんど注目されてこなかった若くして死んだ不遇の作家に強烈に入れ込み、その情熱が作家としての原動力であるのみならず彼の生きる理由そのものであったことの証であり記録である。

藤澤清造の墓前に通い続け、墓標を自分の部屋に引取り、遂にその隣に生前墓まで建ててしまうという狂気じみた入れ込みようは余人に到底真似し得るところではなく、もはや信仰の域に達していたといってよい。実際芥川賞の三度目の候補となったとき、西村は藤澤に手を合わせて一心に祈っている。

藤澤清造に熱中する前は、田中英光に対してもそれに等しい情熱を注いでいた(そちらは現実的な事情から中断を余儀なくされた)。そうみると、西村は本来が偶像崇拝に傾く傾向の持ち主であり、過度の理想主義者(ロマンチスト)であったと思える。対女性関係においては、その理想の高さゆえに現実の女性に飽き足らず、激情を暴発させ(それが空回りに終わ)ることがしばしばであったようだ。

現実世界で彼の激しい渇望を満たすものなど手に入らない代りに、もはや現実では相まみえること叶わぬ没後の作家たちの創造した世界に耽溺することをその代償行為としたのであろう。

彼が尊敬し共感することのできた存命する唯一の作家であった石原慎太郎がこの世を去ったとき、西村もまたこの世に生きる理由を失ったのかもしれない。

西村が石原に手向けたような見事な追悼文を、その死があまりにも突然のことだったとはいえ、西村の没後に書く作家がいなかったのは残念である。

これから西村賢太の追悼特集が各文芸誌で組まれることだろうが、どこまで彼の作品世界に踏み込んだものが出来るのか、しかと見届けたい。

 

〈秋恵さん〉の手記(聞き書き)が出たら、個人的には島崎こま子さん以来の衝撃だな。