INSTANT KARMA

We All Shine On

Drive My Car 感想(ネタバレ編)

「今作は全体として、なにか停滞している人間の話でもある」

濱口竜介監督インタビューより)

ワーニャ 僕は明るい人間でしたが、そのくせ誰一人として、明るくしてはやれなかった。……(間)この僕が明るい人間だった。……これほど毒っ気の強い皮肉は、ほかにちょっとないな。僕もこれで四十七です。去年までは僕もあなたと同じように、あなたのその屁理屈でもって、わざと自分の目をふさいで、この世の現実を見まい見まいとしていたものです、――そして、それでいいのだと思っていました。ところが今じゃ、一体どんなざまになっているとお思いです! 僕は、腹が立って、いまいましくって、夜もおちおち眠れやしない。望みのものがなんでも手にはいったはずの若い時を、ぼやぼや無駄にすごしてしまって、この年になった今じゃ、もう何ひとつ手に入れることができないんですからねえ!

 

ソーニャ ワーニャ伯父さん、面白くないわ、そんなお話!

 

ヴォイニーツカヤ夫人 (息子に)お前は自分の昔もっていた信念を、なんだかうらみに思っておいでのようだね。……けれど、悪いのは信念ではありません、お前自身なのだよ。信念そのものはなんでもない、ただの死んだ文字だということを、お前は忘れていたのです。……仕事をしなければならなかったのですよ。

 

ワーニャ 一生を棒に振っちまったんだ。おれだって、腕もあれば頭もある、男らしい人間なんだ。……もしおれがまともに暮してきたら、ショーペンハウエルにも、ドストエーフスキイにも、なれたかもしれないんだ。……ちえっ、なにをくだらん! ああ、気がちがいそうだ。……お母さん、僕はもう駄目です! ねえ、お母さん!

 

チェーホフ「ワーニャ伯父さん」より)

※以下、映画鑑賞後に読まないと意味不明です

 

僕は初見の時点で村上春樹の原作本は読んでいない。チェーホフの「ワーニャ伯父さん」も昔読んだきり殆ど記憶が残っていなかった。

濱口監督の作品は、『親密さ』『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』を見た。今回の『ドライブ・マイ・カー』の中にはこの三作品の要素がすべて含まれていた。中でも演劇を創る過程をドラマ化するという点では『親密さ』に近い部分があったと思う。

僕がこの映画で最も感動して泣きそうになったシーンは、皆が公園で野外練習を行うところで、ソーニャ役の韓国手話の女性とエレーナ役の台湾人の女性が語り合う場面だ。ここでは台詞の意味を超えたところで〈何か〉が起こっていて、その場にいた家福はじめ誰もがそれを感じている(ドライバーのみさきもこの現場に同席している)。

他の濱口監督作品と同じく、この映画にも、「そもそも〈伝える〉とか〈伝わる〉とはどういうことなのか」「他人を〈理解する〉とはどういうことなのか」というコミュニケーションに対する根本的な問題意識がある。

家福と音の間には、「きみのことが好きだ」「きみと出会えてよかった」などの言葉のやり取りはふんだんに行われているし、身体どうしのコミュニケーションも成立している。一見して睦まじい夫婦のように思える。

しかし二人の過去には、四歳で病死した娘の存在があり、その後に子供を作らなかったことへの意識の些細なズレがある。子を持たないという事実が夫婦の間に影を落としている。

だが、世間には子供を持たない夫婦は多いし、子供を失った夫婦もある。音が複数の男性との浮気に走っていた理由は、こうした欠乏感や喪失感だけでは説明がつかないように思える。

 

そのカギとなる秘密が隠されているのが、音が性行為の際に独白のように口走る〈物語〉である。

音の〈語り〉は、前世ではヤツメウナギだった少女が、今生で惹きつけられた少年の家に忍び込み、密かに自分のセクシャルな痕跡を少年の部屋に残していくという筋書きに入る。それは次第に、使用前のタンポンを机の抽斗に入れたり、履いていた下着を少年の衣類の仕舞われた箪笥に入れたりするところまでエスカレートしていく。遂に彼女は、彼の部屋のベッドの上で、それまで自らに禁じていた自慰行為を始める。そのとき部屋への階段を誰かが上ってくる気配がする。少年か、少年の母親か、父親か。いずれにしても自分はもう終わりだ。でも見つかってしまえば、今の悪循環から抜け出ることができるかもしれない。連綿と続く因果の流れを断ち切れるかもしれないという予感もある。

そこまで話したところで彼女は果てる。

翌朝、音が仕事に向う家福に向って、今夜話がしたい、と言う。了解して家を出たが、家福に胸騒ぎがする。

家福は、音の不貞行為の現場を見ている。そして見ないふりをしている。家福は、音を失うかもしれないようなことを音から伝えられることを恐れている。

家福は、音が朗読したテープを車の中で流し、それに合わせて台詞を発し、自分の中に染み込ませるのを習慣にしていた。車中にチェーホフ「ワーニャ伯父さん」の中のソーニャの台詞を音が読みあげる声が流れる。

でも、仕方がないわ、生きていかなければ! ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね――

夜、家福はマンションの駐車場に車を止め、そこから出て行くのを躊躇う。左目に緑内障の目薬を差す。涙のような液体が零れ落ちる。ようやく車を降り、エレベーターを上り、ドアを開け、中に入ると、キッチンの床に音が倒れていた――

 

音の物語には〈続き〉があった。それを知っていたのは、音の書いたドラマに出演し、音と不倫行為を行っていた高槻であった。

「音さんが僕と家福さんを再び引き合わせてくれたんです」と高槻は言う。彼は直情的で、自分をコントロールできず、論理より身体性、言葉による伝達よりも暴力性を優先させる。テキストの読み込みを主体とする家福の演技指導を今一つ飲み込めないで苦しんでいる。

そんな高槻が、ある〈行為〉を行った後、みさきの運転する車の中で、あたかもそれが音から彼に課せられた義務であるかのように、音から伝えられた物語の〈続き〉を、家福に聞かせる。

 

――階段を登って来たのは、少年でも、少年の親でもなく、ただの空き巣だった。

少女は、襲い掛かる空き巣の男の、左目にペンを突き立て、急所に刺し傷を負わせ、絶命させるに至る。そして男の死体を置き去りにして部屋を出る。その夜、少女は少年に連絡を取り、事の全てを打ち明ける。彼女は、どんな処罰も受け入れる覚悟をして翌日学校に登校した。ところが、意外なことに、少年はまったく普段通りで、何も変わったことはなかった。ただ一つ変わったのは、少年の家の前に監視カメラが設置されたことだった。あらゆる犠牲を払うつもりのあった少女は、絶望し、監視カメラに向って叫ぶ。声が届かなくても、はっきりと口を開けてこう言うのだ。

「私が殺した! 私が殺した!」と。

 

音から託された物語の〈続き〉を語り終えた高槻は、この世ならぬ鬼気迫る表情で顔を強張らせながらさらにこう言うのだ。

「家福さん、僕はあなたの百分の一も音さんのことを知っちゃいないかもしれない、でも音さんは、とてもいい女性でしたよ、本当に素晴らしい女性だった。あんな女性に愛されたあなたは幸福だった。でも、家福さん、そんな音さんも、他人にはとても、覗き込むことも、眼にすることも耐えられないような、暗い深淵を抱えていたのですよ・・・。人間には、所詮、他人を全て理解することなど、不可能なのでしょう。ただ一つ、本当に他人を理解する方法があるとすれば、それは、自分自身の心の中を覗き込み、自分自身の暗い深淵を見つめるしかないのではないでしょうか」

 

高槻を下ろした後、運転席からみさきは家福に語りかける。

「あの人は、本当のことを言っていたと思います。声で分かります。少なくともあれは、彼にとっては本当のことだったんです。わたしは、小さい頃から、ウソばかり言う人たちの中で育ってきたから、そういうことには敏感なんです。そうでないと生きて行けなかったから」

二人はタバコを吸い、天にそれを掲げる。それはあたかも二本の線香の煙が、いまだ成仏できない魂を悼み、その救済を祈る行為であるかのようだった。

 

この映画は、テキストをほとんど敷き詰めるように充満させながら、テキストの外にある要素からその意味を伝えようとしている。そのために手話や無音というものが効果的に使われている。

家福とみさきの二人が、みさきの母が雪崩の下敷きになって死んだ家のある故郷(北海道)に車で向かうときの無音描写もそのひとつ。

真っ白な雪景色の中で家福が、みさきの前で、「僕はきちんと傷つくべきだったんだ」と告白する場面では、劇場の中に嗚咽する声が聞こえた。

高槻の言葉でいえば、「音の気持を理解するために、自分の暗い心と向き合って、それを見つめるべきだった」ということだろう。その言葉を聞いたみさきは、彼の娘ならきっとそうしたであろうことをする。生きていればみさきと同じ二十三歳である。

 

映画のラスト、本番舞台の最後の台詞、ソーニャがワーニャに語りかける部分は、それが手話であることによって、実際に声に出して発する以上のものが〈伝えられている〉ように思った。

このソーニャの台詞は、家福が音を自宅で「発見」する前に車内で聞いていたテープと同じものだ(ただし後半部分は音による朗読では聞かれない)。このリフレインが一度目は「音」の声で、二度めは手話で〈話される〉ことの意味を噛み締めたい。

でも、仕方がないわ、生きていかなければ! ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあうれしい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち――ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。ほっと息がつけるんだわ!

その時、わたしたちの耳には、神さまの御使いたちの声がひびいて、空一面きらきらしたダイヤモンドでいっぱいになる。そして私たちの見ている前で、この世の中の悪いものがみんな、私たちの悩みも、苦しみも、残らずみんな――世界じゅうに満ちひろがる神さまの大きなお慈悲のなかに、呑みこまれてしまうの。そこでやっと、私たちの生活は、まるでお母さまがやさしく撫でてくださるような、静かな、うっとりするような、ほんとに楽しいものになるのだわ。私そう思うの、どうしてもそう思うの。……(ハンカチで伯父の涙を拭いてやる)お気の毒なワーニャ伯父さん、いけないわ、泣いてらっしゃるのね。……(涙声で)あなたは一生涯、嬉しいことも楽しいことも、ついぞ知らずにいらしたのねえ。でも、もう少しよ、ワーニャ伯父さん、もう暫くの辛抱よ。……やがて、息がつけるんだわ。……(伯父を抱く)ほっと息がつけるんだわ!