昨日見た動画で濱口監督がホン・サンスについて言及しているのを聞いたのをきっかけに、以前から気になっていた彼の作品をいくつかAmazonPrimeで見た。
最初に見たのが2017年の「それから」、次に同年の「クレアのカメラ」を見たが、淡々としたアンチドラマ的なスタイルが好印象だったものの傑作というほどには思えず、正直いまひとつピンと来なかった。しかし今朝「正しい日 間違えた日」を見て面白いと思ったので、2016年の「夜の浜辺でひとり」も見た。
これらの作品はいずれもホン・サンスがキム・ミニという女優と出会い、彼女とプライベートで付き合うようになり、彼女を主演にして作品を撮り続けた時期のもので、制作された順番に見ていくことでその意味が明瞭になってくる。最初に「それから」を見てピンと来なかった理由は「正しい日 間違えた日」を見て分かった。
この「正しい日 間違えた日」がキム・ミニの初主演作で、二人の出会いのきっかけになった作品であり、この映画にはミューズと出会った〈ときめき〉が封印されている。それ以前の作品は、恋愛を俯瞰的に突き放した観点で描いていた(らしい)が、この作品以降の彼の映画は私小説的な色彩が濃い。私小説が大好物の自分にとって近時の作品のほうが興味深いのは当然である。
2015年の「正しい日 間違えた日」は、いわば小津安二郎の「麦秋」のようなもので、ヒロインがとにかく〈かわいく〉撮られている。そういう意味で一種のアイドル映画である。
主人公は芸術映画を評価されている中年の映画監督で、明らかにホン・サンス自身の投影である。彼はトークショーのために訪れた都市で見かけた若い女性に一目惚れし、懸命にアタックする。その情けないまでの切実さが醸し出すユーモアは西村賢太の私小説を連想させる。
映画は前半と後半に分かれ、同じようなシーンが反復されるが、前半では失敗し、後半では彼の恋愛は見事に成就する。そのためこの映画の後味はとてもよい。
ついでに付け加えると、キム・ミニは日本の引退した元女優・桜井幸子によく似ていて、「高校教師」などのドラマで彼女に夢中になった自分からすれば、この映画で監督がヒロインに一目惚れし、夢中になってアタックするさまには強烈な共感を覚える。
そしてこの映画をきっかけにホン・サンスとキム・ミニは恋に落ち、ホン・サンスは既婚者だったため不倫として韓国世論の猛烈なバッシングを受ける。いたたまれなくなった二人は外国に逃亡する。その顛末が投影されたのが2016年の「夜の浜辺でひとり」である。
ここで主人公のキム・ミニは最初から最後まで出ずっぱりだが、相手役たる「監督」は最後の最後まで出てこない(出てきたのも夢の中だったというオチがつく)。露骨にキム・ミニのための映画であり、二人の現実の状況を投影している点では私小説的である。
ちなみに、2015年の「正しい日 間違えた日」を取った後に(あるいは並行して)、キム・ミニは「お嬢さん(アガシ)」という映画に出演しており、そこでは相当ハードなエロシーンを演じている。これを見てホン・サンスがどう思ったのかは分からないが、「夜の浜辺でひとり」の中に、年上の女性とのレズを連想させる冗談めかしたキスシーンが挿入されているのは何か当てつけのようにも感じられなくはない。
またこの映画の中では、監督自身の投影と思われる男の登場のさせ方にマジックリアリズム的な手法が用いられている(外国では彼女を負ぶって攫っていき、韓国ではホテルの部屋の外に〈存在〉する)。
2017年の「それから」の主人公は、個人経営の出版事務所の社長で、評論家でもあり、事務員を愛人にしている。やや間接的ではあるがこれもホン・サンス自身を投影した人物だろう。この映画では妻が愛人のいる事務所に怒鳴り込んできて修羅場が繰り広げられるが、愛人と誤解されて妻に殴られるのがキム・ミニの役である。
オロオロし、酔っ払い、号泣する情けない無様な中年男は現実のホン・サンス自身のカリカチュアにしか見えない。ひたすら日常シーンを描写する作品の中に時系列の組み換えや、結末部分での男の明らかに不自然な振る舞いなどでアクセントがつけられ、観客の意識に〈引っ掛かり〉が残る。
2017年「クレアのカメラ」は、カンヌ滞在中のフランスの女優イザベル・ユペールを招いてわずか十日足らずで撮影されたという、スケッチのような作品である.
上映時間も一時間余りと他の作品に比べて短い。ここでもキム・ミニと中年映画監督の不倫と妻の嫉妬がテーマになっている。
2018年にもキム・ミニを主演にした「逃げる女」が発表されているがこれはまだ見ていない(アマゾンプライムでは有料レンタルになっている)。
ホン・サンスのスタイルが濱口竜介に大きな影響を与えた理由はよく分かるし、アピチャッポン映画にも通じる前衛的な要素もある。映画ファンにとっては今更のビッグネームではあるが、自分にとってはこれから注目したい人物がまた一人増えた。