War Is Over

 if you want it

Nowhere to Run

松村雄策が愛した六十年代のロックについて、彼自身がどう考えていたかは分からないが、僕にとってあの頃のロックは、本当に世界を変革するような出来事だった。それは単なる音楽ではなかった。

松村雄策もこう書いている。

「一昔前の少年時代、レコード・ジャケットを見ただけで何か鋭い予感が走り、レコードを聞くと背筋に冷水を浴びせられたような感覚が起こり、その場で自分が変わって行くのが明確に解るというレコードが、確実に何枚かあった。ドアーズのレコードも、そういった中のひとつであった」

僕はリアルタイムでビートルズもドアーズも知らないし、六十年代の雰囲気も知らない。僕がそれらの音楽に出会ったころにはもうロックは商業的な生産物(プロダクション)でしかなかった。

しかしビートルズやドアーズを聴いていると、それらの音楽が今さら世界を変革することはなくても、自分の意識が変革される気がしていた。

それを感じることができたのは、彼らが音楽を作りながら、同じことを感じていたからだと思う。

そこには、産業化し商品となった今の大衆音楽(当時も商品には違いなかったのだが)にはない、何かマジカルなものが宿っている。

こじつけめいていえば、吉本隆明の詩にも、同じようなものを感じることがある。

ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ 

 

吉本隆明「廃人の歌」

高橋源一郎は、中学生の時、同級生が吉本隆明の詩(「異数の世界へおりてゆく」)を朗読するのを聞いて、「その朗読を聞く前と、聞いた後では、わたしは異なった人間になっていた」と書いている。

吉本隆明は、本質的に詩人であって、哲学者や思想家や評論家ではないと思っている。

彼の本、たとえば『言語にとって美とは何か』や『共同幻想論』を、思想書哲学書として読むことは無理がある。それは明確な思想体系を提示しているものとはいえない。今風の言葉で言えば、思想や哲学の「雰囲気」を伝えているだけだ。しかし、その「雰囲気」の持つ魔術的な効果が読者をとらえたのだ。その魔術的な効果は、彼の詩的才能からきている。

もう一つ、吉本隆明を時代のカリスマ的存在にしたのは、彼の論争のスタイル、論敵を徹底的に完膚なきまでに論破するその痛快さによる。有名な「花田−吉本論争」での吉本の花田に対する攻撃ぶりには、高倉健のヤクザ映画を見るのと同じカタルシス的効果がある。

吉本隆明が思想家としては空虚であったことは、晩年の著作によって露わになっているし、呉智英が批判本の中で容赦なく明らかにもしている。吉本が知の巨人として尊敬していたフランスの学者ミシェル・フーコーは、フランス語に翻訳された彼の本があまりに支離滅裂で読みとおすことができなかったという(翻訳したのは蓮実重彦だから翻訳の問題ではなかったはずだ)。

だが彼の魅力は思想としての高度さのようなところにはなく、特定の時代状況の中で特定の人々の琴線に触れる詩的能力にあったのだと思う。

その言霊力(ことだまりょく)の使い手としての才能は、娘の吉本ばななにも受け継がれているのだろう(僕自身は彼女の小説を読んだことがない)。