INSTANT KARMA

We All Shine On

Marilyn Monroe No Return

「モンローが死んで、この世からやさしさが失せた。モンローが死んで、この世からぬくもりが失せた。モンローが死んで、この世からほほえみが失せ、モンローが死んで、この世はとわの闇にとざされた。だけど、かわいそうなモンロー、いつもお前の心は冷え切っていたのだろう、いつもお前の胸は悲しみに満ち、お前の瞳は涙でくもり、お前の唇はあえいでいたのだろう。だからこそお前は、あんなにもいたわり深く、同じように悲しく冷たい世の中の、憐れな同類にほほえみかけていたのだ。暗さをひめたものだけが、もっとも明るく輝き、そして、悲しみをいだくものだけが、もっともやさしく唄う。燃え尽きてしまったモンロー、すり切れてしまったモンロー、与えることだけしか知らなかったモンロー、さようなら」

雄二はつかれた如くに書き、すぐ鉄筆きしらせて原紙を切った。しかし追憶のモンローなんかあり得ない、この地球に生きているから、モンローだったのだ、その肉体が滅びると共に、思い出も記憶も失せてしまう、そういう女だった、今更、立川に代わって追憶の言葉を電波に乗せても虚しいと気づいて、原紙破り捨てる。良枝も赤ん坊もいまはあらわな敵意をもって、自分をながめているように思えた。

野坂昭如マリリン・モンロー・ノーリターン」より

 

3回目のワクチン(モデルナ)を打った後、「作家自身の私小説」という売り文句に惹かれてブックオフで購めた野坂昭如マリリン・モンロー・ノーリターン』を読む。 面白かった。 まだ発熱したっぽくはないが腕が痛む。

※そのあと結構強烈な副作用に襲われて一日半くらい寝込む羽目になった。

 

現在のすぐれた大衆小説家として、・・・野坂昭如という作家がいます。こういう作家はすぐれた大衆小説家だと思います。大衆小説家という言い方は何ら侮辱的な意味を含んでいないこと、つまり高級か低級かということが、作品がいいか悪いか、価値があるかないかということは関係ないというふうに、言葉として受け取ってほしいんです。

この大衆小説に、もし弱点があるとすれば、人間が昔々に、決定的なことは行ってしまっていると、そういう型が繰り返されているという理解が、根本に無意識のうちにありますから、何かを描くときに、おあつらえむきに描かれて、そこの類型はちっとも突き崩せないということが、特徴的なんです

宗教を描けば、いかにも宗教というのはこういうんだよというふうに、型としてわれわれが潜在的にか習慣的にか受け取っているものに、合致してしまうということなんです。型を疑うということがなされないのです。

けれども、これが利点な所以は、型を取り出していますから、習慣の歴史が型に加担していて、強いということなんです。これは別に文学作品をもってこなくても、流行歌とか、服装などの流行でも何でもいいんです。型は刻々に変えるようにみえますけれども、ひとつの型の本質があって、それだはどうしても崩れない。

たとえば、あの涙が何とかであって、その港ある町でどうしたという(笑)流行歌があるとすれば、メロディーをも含めて存在する型というのは、高級な人間であろうと、低級な人間であろうとどっかにはちゃんとしまってある部分に訴えるのです。型を刺激されますから、強固に心に入ってくる。

だから、逆にいえば、そういう型を現在的な素材と現在的なやり方でつかまえるならば、流行歌の作曲家というものにはなれるわけです。だから大衆小説家にもなれるわけです。その型をどういうふうに強固につかまえるかということができれば、大衆小説は成り立ちます。だから井上さんとか野坂さんというのにはなれるわけなんです。

吉本隆明の講演「文学の現在」より