INSTANT KARMA

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当事者性とリアリティ…

どうせ誰も読んでいないブログだから何の気遣いもなく好き放題書いてしまうのだが、「ドライブ・マイ・カー」の韓国手話のシーンが批判を食らってるという。

批判の内容を乱暴にまとめると:

実際に手話を使う立場から見て、手話が消費されていると感じた。彼女の手話は美しくなかった。棒読みでロボットのようで、そこに言語がないのは明らかだった。手話は言語であってパフォーマンスではない。

結局のところ、手話を美しいと思った聴者が、その本質を深く理解することなく、パフォーマンスの視点だけで消費している。手話を知らない聴者が、手話を演出するのはおかしい。観客も手話を知らないのになぜ手話を評価できるのか。

一番だめなのが、濱口監督がオーディションで、「実際に存在しない手話」を、手話を知らない聴者にやらせ、その表現に感銘を受けたと語っていることだ。

この指摘は「障碍」というセンシティブな要素を孕んでいるから安易に論じるのは憚られるのだが、根っこにあるのは、例えば自分が将棋を扱った映画「聖の青春」を見たときの違和感や、松村雄策小林信彦ビートルズ小説を読んだときの違和感や、菊地成孔が映画「セッション」を見たときの違和感などに通じるのではないだろうか。要するに「当事者性の問題」、換言すれば「当事者とそうでない人とのリアリティ感覚の違い」という問題ではないのか。
それが将棋とかビートルズとかジャズなどであれば、まあ好みの問題ということで、ときに大事(おおごと)になることはあっても、深くシリアスな問題にはならないのだが、「身体障碍」の問題になると違ってくる。

もちろん「ドライブ・マイ・カー」障碍者の問題を無神経に扱っているということはなく、善意ではあるのだが、ろう者の存在を単なる映画の演出上の道具として用い、ろう者への当事者意識が十分ではなかったということだろう。

だが、当事者からの当事者意識に欠けるという批判を突き詰めていけば、弱者(障碍者や子供や女性や少数民族)をテーマにした映画に対するハードルがとてつもなく上がってしまうのではないかという危惧もある。いや十分なリアリティをもって扱うならいいんだ(この映画で言えば本当のろう者を起用するとか)、という言い方は、リアリティに関する評価に確かな基準がない以上、それほど説得力がないように思う。

それはそれとして、改めて「ドライブ・マイ・カー」を振り返ると、あれほど絶賛しておいて今更何だよという話だが、やはりご都合主義―物語を進めるための〈ためにする〉設定―が感じられる部分がないではなかったと思う。

とはいえ(ジグザグな文章で申し訳ない)、濱口竜介監督が今の日本で最も良質な映画の作り手であることは確かなので、これからもっと凄い映画を見せて度肝を抜いてほしいと期待している。