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暴力と選択

園子温監督の過去の行状が今になって告発の対象になっている。

園監督だけでなくこのところ映画業界における性被害の実態を明らかにする動きが目立っていて、日本版metoo運動が本格的に始まったのかとも思わせる。

「業界では前から有名だった」とか「知ってたならその時になぜ言わなかったのか」とか「被害者が告発するのは当然の権利としても加害者に対する社会的リンチはよくない」とかいろいろな意見が飛び交っているようだ。

園監督の愛のむきだし冷たい熱帯魚については過去にこのブログに感想を書いたことがあるが、「冷たい熱帯魚」は見るに堪えない駄作だと思ったし、「愛のむきだし」は結局満島ひかりがよかっただけだったように思う(当時の感想では園監督の手腕を評価した記憶はあるが)。

だが仮にその監督の過去作品を高く評価したからと言って、その評価者が責められるいわれはないはずだが、勢い余ってそんなところまで来ているとしたら嘆かわしい事態と思う。

こういうニュースに接するたびに、濱口竜介監督が書いた「暴力と選択」という詩を思い出す。「親密さ」という映画の中に使われている。

今話題になっているような行為が醜悪なのは、それが「この人の言うことに従わなければ自分の未来が閉ざされる」と思わせることで選択の余地を奪うからだ。それは言葉の最も深い意味での〈暴力〉に他ならない。

暴力と選択

 

暴力とは何かとずっと考え続けてきた

最近ようやく答えの一つが導き出された気がする

選択肢を与えないこと

もしくは選択肢がないと信じさせること

つまりは選ぶという人間精神の根本的な自由を否定し奪い去るもの

それが暴力だ

 

このことで身体的な次元にとどまらない暴力まで説明できる

身体的な暴力が否定されるべきは基本的に二点ある

それが人を不可逆的に損ない選択不可能性であるところの死へと近づけるから

もしくはまたそうした身体的な暴力が未来における選択の可能性を狭める

もしくは狭めるよう要求するからだ

しかしこれはより大きな暴力の一つの形にすぎない

 

人に「選ばせない」選ぶことができると信じさせない力

それが暴力だ

 

それは身体的な暴力にとどまらない

言葉と関係による精神の暴力があり

運命の暴力もまたある

 

しかし一般に暴力と思われているもの

それを世に放っただけで暴力は暴力になるのではない

この世には放たれた不完全な暴力が漂っている

それはもはやそれを吐きだしたのが誰かもわからないような

常に着床の機会をうかがう暴力の胞子だ

 

われわれに選べることは少なくとも二つある

一つは少なくとも自分はできるかぎりその胞子を吐きださないようにすること

もう一つは自分がその胞子を着床させないということだ

 

極端なことを云えば人を殴ることは必ずしも本質的な暴力ではない

殴られた人間は自分を被害者だと感じたとき

自分は不当な影響力の下に置かれたと感じたときにのみ

暴力は完全な暴力となる

このことからある種のけんかや体罰が必ずしも暴力ではないという現実的な事態が説明できる

 

ちなみにもしそれが人に死をもたらすものなら

選択の可能性を奪うそれはそれ自体で成立する暴力だ

誰かを殴ることはもちろん暴力の胞子を吐きだすことだ

それが悪意に基づくものならそれはかなりの確率で着床するだろう

しかしそれはまだ完全な暴力ではない

それはまだ人の選択を奪い去りはしないからだ

 

このとき被害者然とふるまう人々

彼らこそが実は暴力を完全なものとするのであり

彼らもまた暴力の担い手なのだと言ったら彼らは驚くだろうか

自分たちはただ暴力の純粋な被害者だと彼らは訴えるだろうか

彼らは言うかもしれない

そんなことは選べない だって私は殴られたのだから

そんなことは選べない だって私は罵られたのだから

そんなことは選べない だって私は傷ついたのだから

 

しかし単に人を傷つけることは 人に傷つけられることは

それがいずれ癒えるならそれはまだ暴力ではない

人はすべてを選ぶことができる 何かを選ばないことも

ただ一つだけ選べないのは「選べない」ということである

人は「選べない」ということを選ぶことはできない

その時人はもう既に何かを選んでいるからというトートロジーだけが問題ではない

人が「選べない」と口にするそのときに

自らの精神から選択を奪ってしまうのならば

そのときに人は自らのうちに暴力を育てているのだ

 

自らの精神から選択を奪ってしまうのならば

彼彼女は知らず知らずのうちに自らに暴力をふるう

そして彼らが暴力をふるうのは実は自らに対してのみではない

彼らは自分自身を通じてすべての人間に暴力をふるう

このとき暴力は単なる胞子であることを超え

根を張り大地へと侵食する

 

人は何度でも選ばなくてはならない

なぜ選ばなくてはならないのか

暴力が奪い去ることならば選択とは与えることだからだ

選ぶことはいつも過去から未来へと向けられている

 

選ぶことは信じることと同義である

既に確かな何かを信じることはできない

不確かな何かを信じ未来に向かう力を与えることが

選ぶということの本質だ

もし人が互いに不確かなまま出会い

それでも互いを未来へと向けて選びあうなら

互いに力を与え続けることもできるはずだ

それは信じあい 選びあう力だ

ただ暴力だけは選ばないための力だ

 

暴力も暴力の胞子も もうなくなりはしない

ただ私たちはいつもそれを選ばないことを選ぶ