INSTANT KARMA

We All Shine On

Eternal Now

例えば、全く何もしないでもいいというような休みの日が一日出来たとしたらならば、いったいどのように過ごすか。先ず、押し入れの奥にしまいこんである、莫大な量のビートルズの写真の切り抜きを持ち出してくる。雑誌のビートルズ特集号も出す。ビートルズ関係の書籍を並べる。僕のビートルズ・ノートを開く。そして、ビートルズのレコードをかけて、写真を並べてみたり、本や雑誌とノートを合わせてみたりする。

そんな事を、日がな一日やっているのである。いや、一日とはいわない。三日間、毎日朝から晩まで、そうやって暮らした事もあった。それで、全く飽きるという事がない。楽しくて、面白くて、しょうがない。どうも、一週間や二週間は続けられるようである。

松村雄策「あるビートルズ病患者の告白」より (「アビイ・ロードからの裏通り」収録)

 

松村雄策のCDイターナウ「今がすべて」 をAmazonで予約したが現時点で在庫切れになっていて、早めに予約してよかった。届くのは13日~15日となっていて愉しみ。

https://m.media-amazon.com/images/I/71xn9x5R5FL._AC_SX569_.jpg

1975年未だ自主制作という概念すらなかった時代にカセットのみでリリースされた松村雄策がボーカルを担当した幻のグループ"ETERNOW"(イターナウ)

全11曲の音源をマスターテープより完全マスタリング!

※本作は1975年にカセットテープのみで発売された作品で、MEDICOM TOYは2021年初夏から本作のCD復刻準備を進めておりました。
松村雄策ご本人も、当初よりマスターテープの発掘作業やライナーノーツの記述等に意欲を見せておられましたが、製作途中から体調を崩され、大変残念なことに発売前にご急逝されました。
一部ライナーノーツの記述等が、ご生前の内容になっておりますことをご了承ください。

橘川幸夫のブログによれば、ボーカルが松村雄策リードギターは薔薇卍というバンドをやっていた竹場元彦。ベースは、松村の親友、日下好明。その後電通に入り、ピタゴラスイッチの曲などをつくった。キーボードは、その後ダウンタウンブギウギバンドのキーボードになった千野秀一

歌詞は岩谷宏が書いているという。

松村雄策のロック歌手時代についての発言を、松村雄策botというツイッターから引用させてもらう。

ひとりの人間が、歌を歌ったり原稿を書いたりするのを好ましくないと考えている人がいるのである。初めてレコードを出してからこの二年間、一部の人達に、かなりはっきりとした形で敵意をしめされ続けている。 80-12

松村:  お前にやられたのはレコードのプロデュースを一回だけで、ひどい目に遭った記憶しかないよ。
渋谷: マッキー・ショック!
松村: やめろ、それは。
渋谷: マッキーってマジックを宣材で配ったんだよな。
松村: 忘れたよ、そんな事は。

松村: 三年くらい前かな、あるところで難波弘之君と会ったんだよ。難波君もあの一枚目に参加してくれたじゃないか。なんか、レコーディング前にミュージシァンが呼ばれて、プロデューサーに「ともかく、松村が叫べないように作ってれ」って言われたんだってさ。
渋谷: ふうん。

松村:  で、秋にいっしょにデビューしたのが、竹内まりやARBでな。よく放送局なんかで、いっしょになったよ。
渋谷: 竹内まりやとデビューがいっしょなのか、お前は。
松村: そう、「あなたのポスター、見たことある」とか言われたんだけどな。

渋谷:だけど、お前の本買ってくれる人の半分でも、レコード買ってくれてたらな。
松村:それはみんなに言われるよ。(中略)本買ってくれる人の十分の一だもんな、レコード買ってくれるの。
渋:正しい評価だろ。
松:これから、このCD持ってかないと、本は売らないことにしようかな。

ダンス・ダンス・ダンス」というディスコ風ナンバーを一番気に入っている。この曲を松村は一晩で作ってきた。ひょっとするとこの男は天才ではないか、とその時思った。松村が神々しく見えるなんてことはめったにないのですごく印象に残っている。夢でうなされそうだ。(渋谷陽一 79-11)

ロックにしかなり得ない詩がある。言葉がロックのビートを要求するのだ。松村の詩はまさにロックのビート以外許さない緊張感を持っている。(渋谷陽一 79-11)

このレコードによって体験したあなたの松村との出会いは、当然のこと僕と同質のものだろう。その感動が、あなたの次の日常への確かな一歩をうながすものである事を確信する  (渋谷陽一 「夢のひと」)

数年前に歌手をやめたことはとてもヘヴィーな出来事であった。(中略) 
やめた直後の落ち込みは、ともかくひどかった。例に挙げては申し訳ないけれど、早川義夫さんはやめてから十年以上もロックを聴く気にはなれなかったようだ。僕もそうだった。  89-4

初めての経験ばかりでどぎまぎしているうちに、話はどんどん進行してしまった。〝まあいいか、みんなが売れるって言ってんだから。たしかにポップスも好きだしな〟つまり、かっこ良く言うと、僕は魂を売ってしまったのである。  86-12

札幌でコンサートをやった時に、佐々木(容子)さんが楽屋にたずねてきて(中略)僕はもうステージ衣装に着がえていたのに、いつ着がえるのかとたずねられて困った覚えがある。あとから、同席していた渋谷に「松村さんはヌメヌメしている」と言って、帰って行ったそうだ。(もしもし編集室 単行本)

僕がやっていた自滅回路というバンドが頭脳警察の前座をやった事も何度かある。前座のセミプロ・バンドのくせに生意気で、メイン・バンドに敬意をはらおうともしなかったのだけど、頭脳警察だけにはしっかりと挨拶をしに行ったものだ。   79-6

渋谷陽一プロデューサーから、ヘヴィーな曲は一切まかりならぬという御達示があった。心の中では、〝てめえ、張り倒されんなよ〟と思いつつも、表面上は、〝御無理御尤も。しかし、そこをなんとか〟と陳情を重ねたところ、それでは1曲だけならば許すという御言葉が下された(難民収容所の子供たち)

ファースト・アルバムのプロデュースで僕が失敗したのは、松村の持つ暗さや重さを歌から意識的に排除したことだ。(渋谷陽一 79-11)

レコーディングに入る時に、渋谷に言われた。「お前の一生は、この一ヶ月にかかっているんだぞ」と。  78-11

レコーディングがすべて完了した時点で、僕は渋谷と茂木に「俺たちは歴史を作ったんだ」と言い切った。レコードの出来には、充分満足している。これで、いつ死んでも、僕には、この人生への悔いはない。(「プライヴェイト・アイ」のこと)