War Is Over

 if you want it

KAZE MUSICA

「MUSICA」2002年5月号に載っている「藤井風8万字インタビュー」を読みたくて早速購入。

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気になる箇所をマーカーでチェックしながら一気に読む。こんなにミュージシャンのインタビューを熱心に読んだのは、「ロッキン・オン・ジャパン」エレファントカシマシのセカンド・アルバムが出た時の宮本浩次インタビュー以来かもしれない。

非常に素晴らしいインタビュー記事だった。有泉智子さんグッジョブとしか言い様がない。

1997年6月14日生まれ。3歳の時には発表会でシューマンの「初めての悲しみ」を披露したというから、物心つく前から父親の手引きでピアノ漬けの生活を送ってきた。

※風君の演奏ではありません

父親は元々ミュージシャン志望で、自分がそこで演奏するために喫茶店をやっているほど。幼い頃の風はほとんど生活の一部としてピアノを弾き、あらゆるジャンルの音楽の楽譜がピアノの上に山積みになってそれを順番に演奏していた。

音楽だけでなく、生活のあらゆる面で父親がつきっきりだったようだ。学校で何があったか、誰とどんな話をしたかを毎日事細かに聞かれた。まったく遊ばせてもらえず、遊ばないことが当たり前の生活だったという。

中学で親は吹奏楽部に入れたがったが、〈自分の中でバランスを取るため〉、親を説得してバスケ部に入る。中二くらいからクラスで目立ち始め、騒がしく周囲を笑わせることの大好きな〈変なキャラ〉になっていった。

それまでは自分がピアノばかり弾いていることにコンプレックスのようなものを感じて、〈普通の健全な中学生〉として振舞おうと意識していたが、変なキャラとして周囲に認知されるようになると、〈普通でいる必要はないんだ〉という解放感に目覚め、バスケ部を止める。中二までピアノのレッスンでクラシックピアノを学び、難曲とされるリストの「ラ・カンパネラ」が弾けるようになったところで、クラシックはやれるところまではやったと思いレッスンは止めた。

高校では普通科の音楽に特化したコースに入学。入試ではピンク・レディーの「UFO」と久石譲の「あの夏へ」のマッシュアップのような曲〉を弾いて、「クラシック以外の曲で入ってくる生徒なんていなかった」と驚かれる。

周囲はクラシックを楽譜通り演奏する音大を目指す人ばかりの中で、文化祭の入場曲の作曲を任されたり、自分で台本を書いて寸劇調の演奏会を企画したりと、クリエイティブな分野で才能を発揮する。

子供のころから、自分は音楽の分野で生きていくこと、ただ演奏するだけではなくポップの世界で人々を楽しませる人気者、エンターテイナーになるということを意識していた。

YouTubeを始めたのは小学校の終わりの冬、ピアノを弾いている動画を親に取られて勝手に投稿されたのがきっかけで、親に勧められるままサックスの演奏やエレクトーンの演奏なども投稿していたが、高校に入って忙しくなり、動画投稿に何の意味があるか分からなかくなったため3年くらい中断する。

高校を卒業しても、大学や専門学校に行くというつもりはまったくなかった。音楽で人に楽しんでもらうことを仕事にすると決めていたので、地元の老人ホームや夏祭り、公民館などで呼ばれるままに演奏していた。ベーシストとドラマーの人とピアノ・トリオを組んで、初めてオリジナル(「優しさ」、「何なんW」、「もうええわ」、「調子のっちゃって」、「風よ」)を作って演奏した。

YouTubeに歌入りのカヴァー動画を上げるのは、家族からは歌が下手だと言われていたので勇気が要った。当時テイラー・スウィフトが自分の古いイメージを捨てて新しい自分の表現をしていくんだ、という決意表明として出した歌を見て、自分も勢いでこの曲のリリース二日後にカバー動画を上げた。

その後もとにかく見た人に楽しんでもらえること、「何なんだこいつは?」とインパクトを与えるような動画にすることを意識して、小道具を使ったり扮装するなど自分なりに工夫しながら演奏動画を投稿し続けていると、一年後くらいから音楽関係者と名乗る人たちからSNSにDMが来るようになった。

親は、無理して東京に出る必要はなく、地元でできることをしていればいい、という考え方だったが、環境を変えて、もっと広い場所に行かないといけないと思った。

自分の音楽を発信したかった。自宅から発信するのではなく、多くの人の力を借りて、ベストな形で自分の曲を世に出さないといけないと焦っていた。

岡山まで来てくれた熱心な事務所の人(現マネージャー河津氏)を親に会わせて、説得してもらった。それが2018年夏で、2019年の春には上京する。

新しい扉を叩き割った/前に進むことしかできん道じゃから/泣いとる時間もないようになるけどな

「さよならべいべ」

あとがないから/ここで戦うだけなの/この旅は そんなに 甘かないわ

「キリがないから」

上京以後のインタビュー、ファーストアルバムとセカンドアルバムについては省略。

 

自分にとって藤井風が気になるのは、その音楽の良さもさることながら、彼があからさまにサイババの信奉者であることを隠そうともせず活動するその潔さと、彼を(それにもかかわらず、といってもよい)肯定的に支持する人々の圧倒的な多さに注目するからでである。

彼のファースト・アルバムのタイトルHelp Ever Hurt Neverとセカンド・アルバムのタイトルLove All Serve Allはともにサイババの言葉であり、サイババの教えに触れたことのある人ならピンとくるはずだ。

サティヤ・サイババは1990年代に日本で青山圭秀の本などをきっかけにブームのようになり、雑誌やテレビでも取り上げられた。日本の著名人(別所哲也とか湯川れい子とか桐島洋子とか糸井重里とか)も多数インドのプッタパルティというアシュラムに訪問した。彼の起こす〈奇跡現象〉にはトリックではないかとの声も大きかったが、どのメディアも一時はかなり肯定的な扱いだったと記憶している。

しかし1995年にオウム真理教の事件が起きて、メディアはサイババのことをまったく(少なくとも肯定的に)取り上げなくなった。著名人たちも表向きにサイババとのつながりに言及することはなくなった。

もちろんサイババの信奉者は1995年以降もたくさんいて、オウム事件などで動揺することもなかった。藤井風の家族、特に父親もそうした人の一人だろう。

ぼく自身も、インドにこそ行かなかったが、ブームになる前からサイババのことは知っていて、彼についての本を大量に読んだり、サイババの団体の集会に出かけたりしていた。いわゆる信奉者ではないが、その教えを肯定的に評価していた。

しばらくサイババのことは忘れて暮らしていたが、2010年頃になぜか急に彼についての興味が再発し、本を大量に海外から取り寄せ、買い込んで読み始めた。ポッドキャストサイババ関連の音声を入れずっと聞いていた。

2011年3月11日の朝、ポッドキャストを聴いていると、ちょうど別の年の3月11日に行われた講話についての音声が流れた。偶然の一致だな、と思っていたら、その日の午後に地震が起こった。思わず職場の机の下に潜り込んでサイババに祈った。

サイババは翌月、2011年4月に亡くなった。インドでは国葬の扱いだった。

 

藤井風は、父親からサイババの教えを空気のように吸収して育ったのだろう。

彼の曲の歌詞は、そのような世界観から書かれたものと思う。

しかし、彼の素晴らしさは、そんな余計な色眼鏡などまったく無意味だと感じさせるほどにその音楽と歌詞に普遍的な美しさが宿っていることだ。

彼の音楽は、偏狭な宗教性などみじんも感じさせないスケールの大きな人類愛を感じさせる。音楽そのものの力(あるいは彼個人の人格的な力)によって偏見やレッテルを無意味化するだけのパワーがある。

サイババとかキリストとかアッラーなどという〈言葉〉や〈観念〉は人々を分断させる。

だが、音楽にはそれらの分断を統合する力がある、ということを藤井風は体現している。

ぼくにとって藤井風は、ミュージシャンとしてデビューし活躍している知り合いの子どもを見るような感覚で、あまり他人のような気がしない。だから応援するというよりも、見るたびに少し気恥しいような、誇らしいような、何とも言えない気分になる。

藤井風のお父さんのインタビュー記事が読みたい。ていうかインタビューしてみたい。