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日乗鬼語

近所の図書館で「風来鬼語 西村賢太対談集3」「一私小説書きの日乗 不屈の章」を借りる。

藤野可織との対談の中で、「暗渠の宿」の中で三島賞がらみで現存のある老大家をディスってる部分があって、その原稿を見た矢野編集長に削除するよう示唆されたが、「僕はここを書きたくてこの一篇を組み立てたんです」と言って受け入れなかったと書いている。

手元の文庫本をひっくり返してみたがどこのことを言っているのかしばらく見つからなかったが、勝又浩との対談でまともに「筒井康隆は大嫌いだ」と言っていて分かった。

勝又もそれに同調するようなことを言って、小説を人間のものではなくゲームストーリーにしてしまったといって批判している。

この部分を読んで、いわゆる純文学(芸術作品)とそうではないもの(通俗小説、エンターテイメント)との違いは何かについて考えた。

これは吉本隆明の受け売りみたいなものだが、後者は「既知のもの」を素材に、その組み合わせによって創造されるものであり、したがって、人間の意識を拡大するような新しいものや従来にない認識をもたらすようなものではない。これに対して前者は、既知のものを素材にしながら、それを超えたものを志向し、人間の意識に新しい何かをもたらすようなものではないか。

吉本隆明はエンタメの本質を「既存の内部」という言い方で表現している(「空虚としての主題」)。小島信夫は先に言う「新しい何か」を「他者」と呼んでいる(吉本隆明との対話)。

さらに言えば、西村賢太の小説は、実はエンタメ私小説ではないか、と思った。これは本人も対談の中で認めている。

純文学のほうが上でエンタメは劣っている、という話ではない。純文学でも面白くないものはダメだし、エンタメでも面白いものはよい、と思う。

そして西村賢太の小説は間違いなく面白い。

ちなみに、この対談集は、Amazonでも在庫なしになって買うことができず、読書メーターで検索しても出てこない。筒井康隆への言及があるせいだろうか、などと勘ぐってしまった。